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家光
私は、江戸幕府第3代征夷大将軍
徳川家光。
徳川の15代の将軍のうち、正室の子は、
初代家康公・私、家光・15代慶喜の
3人のみであり、さらに将軍の御台所が生んだ将軍は、私、家光のみである。
さらに、家康公、秀忠公は、戦国の乱世を生き抜き、徳川幕府の礎を築かれた方々であるが、お二方の御代は、
まだ隙あらば徳川に取って代わろうという野心を持つ者もいたという。
しかし、私、家光は生まれながらにして
将軍であった。
この様に書くと、いかにも剛胆な武将であり、尊大な将軍であったように感じるかもしれない。
ところが、実際の私は、幼い頃は病弱で、乳母の春日局を散々心配させた。
春日局が、私の病平癒を祈願して薬断ちしたほどだった。
また、私は病弱な上に吃音があり、
父・秀忠公や母・江与(えよ)の方は、
私よりも容姿端麗・才気煥発な弟の
国松を寵愛していらした。
乳母の春日局は、もちろん私を大切にしてくれたし、お祖父さまの家康公も私を3代目として尊重して下さった。
この様に、私は徳川の嫡流としての
誇りと、父母の愛に餓え、容姿が劣っていること、吃音という
劣等感を併せ持っていた。
そのせいなのだろうか、
私は、女性に興味を持たなかった。
この国においては、男色には元々寛容な気風があり、
貴族階級から僧侶、庶民に至るまで、
男色は普通のことであった。
特に武士階級においては、戦場に女性がいないことや、主従関係とも絡み
衆道とも呼ばれた。
私が女性を近づけなかったのは、
高貴な血筋である誇りと劣等感というアンバランスさに触れられたくなかったからなのだと思う。
男より女の方が、こういう点において容赦がないと思うのは、私の勝手な決めつけであろうか?
簡単に言えば、男の方が“楽”なのだ。
気を遣わなくて良い。
しかし、将軍ともなると、そうもいっていられぬ。女人と交わらなければ、跡継ぎができぬからだ。
そのために乳母の春日局が頭を悩ませた上で考え出したのが『大奥』だった。
正室の鷹司孝子とは、結婚当初から
仲は険悪だった。
孝子は、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ五摂家ひとつ鷹司家の出身、
父は関白という気位の高さゆえの典型的な
“お高く止まった女”で、私は、全く気に入らなかった。
なので、本来大奥の主である御台所(正室)であるのに、大奥に住まわせず、
中の丸御殿を与え、事実上離婚ともいえる別居状態だった。
春日局がいくら側室候補の美女を集めてきても、私は大奥に足が向かなかった。
乳母殿には申し訳ないと思いながらも…
そんな、主なき大奥に、
ひとりの女人が住まうことになる。
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