自分を出せ

1/1
前へ
/9ページ
次へ

自分を出せ

 マンションに戻ると、玄関口に買い物袋を下ろす。  ワンルームでユニットバス。  最低限生活に必要な物が、手の届く範囲に詰まった部屋だった。  上がり口に冷蔵庫がある。  とりあえず、ビールとつまみ、見切り品の野菜、冷凍食品を入れた。  菓子類はほとんど買わない。  休日以外は間食する時間がないからだ。  疲れた体に鞭打って、最低限の動きで食事、風呂、洗濯、そして寝る。  こんな生活がずっと続くとしたら、人生とは何だろう。  とにかく、洗濯を最初にやらないと時間がない。  素早く着替え、スイッチを押した。  洗濯機の隣に小さなクローゼットと箪笥(たんす)を収めた収納スペースがある。  明日着るものを確認し、レンジのスイッチを入れたときだった。  スマホが鳴っている。  遊び仲間の実起夫(みきお)だった。 「ああ、さっき結から電話があってね。  ちょっと気になったから ───」  不動産会社の営業マンをしているため、仕事の相談をすることもある。  噂では、かなりの営業成績らしい。  かなり稼いでいるだろうが、派手な生活はしない男だった。  疲れが出て、スマホを持つ手がだるくなった。  テーブルに置いてスピーカーに切り替える。 「仕事の話か」 「お前はデキるから、後輩の話をよく聞かないんじゃないのか」  図星だった。  正直、帰ってから仕事の話をしたくなかったが、実起夫なら損得なく話せる。 「後輩にコピーを考えさせたんだけどな。  思いっきり滑って、おジャンになった」 「なるほどな。  じゃあ、もう分析は済んでそうだな」 「適当に反省会を切り上げて、新しい戦略を練って持ち寄ることにしたよ」  スピーカーから唸り声がした。  ご飯を盛って、おかずと共にテーブルに置いた。 「なあ、自分の話をしているか」 「なんでだ。  必要ないだろ」 「人をうまく動かす人ほど、親友を作ろうとする。  友達を増やせば解決する問題が、ビジネスには たくさんあるぞ」 「自分の過去を話すのか」 「そうだ。  人間は、己を知る者を信頼する」 「へえ、敏腕セールスマンが言うなら、説得力があるな。  試してみるよ」  夜遅いからと、切り上げようとしたときだった。  思いがけない言葉に箸を止めた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加