人畜、焼肉屋を始めるよう

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 頬を掴まれて顔を持ち上げられた。横から口紅色の生々しい物体が忍び込んで来た。捕まっても必死に抵抗する。お父さんの脛を何度も蹴って肘で横っ腹を思い切り突き頭を左右に猛烈に振り回す。  だが、お父さんは粘土細工みたいに痛みを感じないようだ。力でもってボクの顔を抑え込み、肉を口の中にねじ込んだ。鼻と口を片手で抑え込まれ、苦しくなって噛むしかできなくなる。 「どうだ、うんまいだろォ?」  視界に映るお父さんの黒目は肉汁にまみれているようにジットリしていた。恐怖のせいか味なんて分からない。ただ頷くしかない。 「そうかあ、美味いかァ。実はなコレ信州牛じゃないんだっ。店で出そうと思っている肉なんだっ。慎太郎が美味いって言うのなら間違いないな。慎太郎には小さい時から美味いものを、たっくさん食べさせているから舌が肥えているはずだもんなァ」  味のしない肉を飲み込むと解放された。その場で崩れ落ちた。お父さんは目の前で腕や腰、首を軟体動物のようにくねらせながら、両足は右左とステップを踏んで喜びをタコ踊りで表現していた。 「嬉しいなあ、慎太郎に喜んでもらって嬉しいぞォ。今夜はカーニバルの気分さァ」 「何の肉なのこれ?」  飲んだ後に何だか妙に柔らかくて口の中にこっくりしたチーズを連想する臭みが残って癖のある旨味が泡沫みたいに鼻に抜ける。 「さあね、どうかな。そのうち分かるから、楽しみにしていてよ。まあ、店を出す時にはもっと美味くなっているから、食べに来てねっ」  お父さんはスキップスキップランランランと去って行った。きっとお母さんのところに戻るに違いない。嫌な黒い空気と臭気は上の階の廊下まで上って来る。  慌てての自室に籠り、廊下に満ちるだろう空気を遮断した。念のため、窓も開ける。外から家の中とは無関係で清涼な空気が入ってくれる。網戸越しに家の前を流れる川面が見える。  この時季になるとゲンジボタルが発生し、水に若草色の麗光を反射させる。幾つもの光点はお母さんの背中のデキモノを想像させる。黄色く膿んだデキモノだ。  吐き気を覚えて慌てて窓から離れた。どこに逃げ場所があるのか。結局、真っ白な布団を頭まで被り外界の全てから逃げるしかない。扉と布団で二重にお父さんたちとの間に壁を作った。  ボクは目を閉じて、何も感知しないようにした。こんな生活を生まれてから十年、ずっと繰り返していた。    お父さんが正体不明の肉を出す焼肉屋を始める。何だか嫌な予感がしなくもない。さっき押し込まれた肉が胃の中で浮いているみたいで、気持ち悪い。
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