何も考えていない人間の醜さ

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何も考えていない人間の醜さ

 エレベータの狭い空間で右隣には森先生、左隣には船橋さんが立っており真ん中にいるボクの体を支えていた。長野大学を出た後、ボクは先生の車の中でボーリング玉くらいの大きさのゲロを吐いた。  昼間出なかった物体が強刺激によって噴出して来た。だが、まだ体内の底には残り滓が溜まっている。恐らくそれらは時間と共に膨張して、再び体を圧迫するだろう。  心配だと言った森先生はボクに家に来るよう言った。お父さんにもお母さんにも会いたくなかったので、涎を垂らしながらとにかく頷いた。  森先生のマンションのエレベータは三階に到着した。二人に支えられて廊下を進んだ。  先生の部屋は和室でボクは布団の上で寝かされた。瞼を閉じると一人の女性が全身皮膚を剝がされてバラ色の五体満足な肉塊になる光景が眼裏に映る。反対色の緑色で打ち消そうとすると、二年前にジェットババアを探しに行った時に和馬君が着ていた緑Tシャツを思い出す。  和馬君の腰に大きな刃物が当たり、刃が下がるにつれてバラ色の肉が露わになる。彼の黒い顔の中で口の占める割合が激痛によって大きくなる。黒板を引っ掻いた音とイルカの鳴き声が混ざったような騒音が輪を描くように広がった。音は聞く者の下腹に鈍痛を与える。  大丈夫かと心配する声によって起こされた。横になっているボクの顔を船橋さんと森先生が覗き込んでいる。  ボンヤリした頭に、船橋さんのフケが落ちて来そうと場違いな心配が一番に浮かび、慌てて上体を起こした。二人はまだ寝ていた方が良いと言うが、寝るとまた騒音の輪に飲まれそうで嫌だった。  部屋の中を見渡すと、卓袱台の上に鍋が細くて柔らかそうな蚕色の湯気を立てている。 「慎太郎、気付いたか。たまたま冷蔵庫の中に食材が揃っていてな、美味しい鍋を作ったんだよ。ほら、見てみな」  先生に促されてボクは四つ這いになって移動して鍋の中を見た。焦げ目のついた木綿豆腐、鶯色に染まった長ネギ、透明度を喪失したしらたき、頭でっかちなシメジ、小屋の中で植木鉢から生えていそうなエノキ、お母さんの傷の寄せ集めみたいな牛肉。 「すき焼きだよ。うまそうだろ」  得意げな声は梵鐘の音みたいに虚しかった。なぜ今日肉を出そうと思うのか。
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