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「も。メシ食った?」
僕が見ていることなんて、その人は全く気にしてないみたいだった。景気よくぱくぱく。と、スープの具を口に放り込む隙間にそんなことを聞いてくる。
お昼ご飯は食べていない。いや。朝ご飯も食べてはいない。
けれど、お腹がすいたとは思わなかった。
首を横に振って見せる。そうすると、その人は、食べていたものから顔をあげる。
「お腹がすくといいことないよ」
ふにゃり。と、笑顔。暗いところに目が慣れて、顔が見えてくる。優しそうな人だった。
そこでも、何かが頭を過った。この笑顔。どこかで見たことがある。
「俺も、腹減るとミス多くなる。あ。俺、この下の図書館司書なんだ」
ああ。と、僕は納得した。
最近はパパが忙しくて来られなくなってしまっていたけれど、小さいときはママとよく来ていた。だから、見たことがあったんだ。
「メシ食うの忘れるくらいいいものが見える?」
ランチバックの中からラップに包まれたおにぎりを出して、その人が言った。
いいものが見える?
僕は首を傾げる。
僕が街を見ているのに意味なんてない。いいものが見えるから見ていたわけじゃない。たぶん。
僕が見ている先には珍しいものなんて何もない。ただ、普通の街に、普通の人が住んでいて、普通の生活をしているだけだ。
それなら、何故街を見るのか。
僕は考える。
思い出せない。
どうして、僕は、ここで、街を、見ている?
思い出せない。
ただ、その疑問には、なんだか、酷く違和感があった。
「暑くない?」
その人は最初と同じ質問をした。
太陽の日差しが照り付ける。空気の熱で肺が灼かれているんだ。だから、肺が握りつぶされたように息がしづらい。
「こっちへ、おいで? 熱中症になっちゃうよ?」
その人は手招きをしている。
なんだか、日陰の部分が酷く暗い。もしかして、僕は本当に熱中症になってしまったんだろうか。だから、視界がこんなに暗いのかな。
俯くと自分の影がとても黒くテラスのコンクリートブロックに映っていた。それが、一瞬ぐにゃり。と、歪んだような気がして、頭を振る。それは、影の形が崩れたのではなくて、まるで。
「ほら。朝からなんも食ってないなら、今日、二人分弁当作ったから、食べる?」
その人はなおも僕を誘う。
その、暗い場所に。
お弁当のいい匂い。そう言えば、最後にご飯を食べたのはいつだっけ?
朝、家を出たときのことが思い出せない。じゃあ夕べかな?
パパの作る美味しくないお味噌汁。パックのお惣菜。ぱさぱさのサラダ。
けれど、パパは毎日プリンをデザートに出してくれた。3個100円のお買い得品のときも、1個1000円もするいいヤツもあったけど、毎日。
僕が好きだから。
プリン。最後に食べたのはいつ?
ああ。
そう思ったら、お腹が空いたな?
プリンが、食べたい。
「デザートもあるんだ。
手作りだよ?」
顔がよく見えない。あの、ふにゃり。とした、笑顔を浮かべているんだろうか。それとも、今は別の表情になっているんだろうか。
食べたい。
けど、なんだか怖い。
「どうしても……そっちじゃないとダメかな?」
何故、この人は僕を誘うんだろう。
僕は思う。
熱中症になりそうで、放っておけないから?
お腹を空かせていそうで、可哀想だから?
それなら、その暗い場所から出て、腕を引っ張ればいいのに。なぜ、そうしない?
「あー。うん。……そか。そこにいたいのか」
なんだか困ったような声になって、その人は言った。
「そこが、好きなんだ」
好き。
と、言われて、僕は即座に思った。
ちがう。
僕は、好きだからここにいるんじゃない。
「ちがう? 嫌い?」
口に出したつもりはなかった。でも、僕の思っていることがわかるみたいに、その人は訊ねた。
ううん。ここは好きだ。
でも、好きだから、離れないんじゃない。
「じゃ。どうして?」
やっぱり、僕は口に出して言ったのではなかったけれど、その人は会話するように聞き返してきた。
『ここが、いちばん。空に。近い』
僕は口に出して答えた。
そうだ。僕は街を見ていたんじゃない。空を見ていた。僕が自由に入れる場所で、ここが一番空に近い。だから、ここに来たし、ここにいるんだ。
ママの一番近くに。
「うん」
その人は頷いた。俯いた瞬間、眼鏡の縁から淡い青紫の光が零れる。
「でも、もう、こっちに、おいで?」
その小さな花の色に、僕ははっとした。
暑い。
暑い日差しが照り付けている。
夏休み最初の日。
去年の今日、ママが空にとけてしまった日。
見上げた空。
手を伸ばす。
もっと。高く。
お空からいつでも見ているからね。と、いったママの近くに。
もっと。近くに。
けれど、不意に、鉄製の手すりから手が離れた。
遠くなる空。
強い衝撃。
僕の影が地面に黒い形を描く。
その黒を乗り越えて、もっと黒い何かが広がる。
黒。ではない。赤。赤い。
見上げると、泣きそうな顔で覗き込む人がいた。
その人の瞳が青紫色に見える。
社員証が光を反射してきらり。と光る。
ああ。僕は。
僕は、僕に向けられた、その人の手を取った。
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