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スープジャーの蓋を閉めながら、俺は大きくため息をついた。
「もう、いない……な」
夏休みも始まったばかり、テラスに来ていた小学生が転落するという事故があった。目撃者の証言によるとまるでもっと高いところに行こうとするかのように、その子は手すりに上って、手を延ばしていたそうだ。
その転落事故の直後から市民センター4Fテラスに、真昼間から幽霊が出るという噂が立ち始めた。落ちた小学生は意識不明とはいえ死んではいないにも関わらず。だ。
「もどれたかな。それとも……いっちゃったかな」
あの日見た男の子の顔を思い出す。
事故の第一発見者は俺だった。遅番で職員通用口に向かって歩いていた俺の鼻先にその子が降ってきたのだ。助けようにも、どこを打っているかもわからなくて、何もできず救急車を呼んだあと、ただオロオロしている俺の袖口を握って、その子は言った。
『ママ……の……ちかく……にいきた……』
視線は俺を通り過ぎて、空を見ていた。
「つれてったり。しないですよね?」
背後に感じる気配に声をかける。そこには30代くらいの女性がいた。振り返りはしない。けれど、濃い影の中にいる微かな気配が二人に増えることはなかった。だから、きっと、少年は戻ったのだと思う。
「また、見守ります? それとも、先に行きます?」
問いに、答えが返ってこないことも知っている。俺の経験上、こういう人たちはとても深い個人的な領域の中だけに閉じこもっている場合が多い。俺の目がおかしいから見えてしまっているだけで、コミュニケーションをとるのは難しいのは分かっていた。
だから、これは、質問ではない。
どちらを選んでもいいのだと、伝えたかっただけだ。
「菫さん!」
ぎゅ。っと、いう独特の音をさせて、テラスへのガラス扉が開いた。続けて、慌てたような声が響く。
「すいません。折角お昼一緒にって誘ってくれたのに」
息を切らせて駆け上がってきたのは、鈴だった。
相変わらず、どこからどう見てもイケメンだ。汗だくになっているその汗さえ輝いて見える。
「鈴。そんな、焦らなくていいのに」
苦笑して見回すと、すでに女性の姿はなかった。
「だって。菫さんが弁当作ってくれるって言うから」
息を切らせた鈴は歩いてきて、俺の隣に座る。それから、何かに気付いたように鈴はさっきまで女性がいた場所を見た。
「さっき、鈴なったんですけど、誰か、いました?」
一瞬、見せた真剣な顔。イケメンに磨きがかかる。青い炎が立ち上ったような気がして、見惚れてしまった。
「菫さん?」
答えが遅れてしまったから、鈴が心配そうな顔になる。
「いたけど、もういない。空に帰ってった」
こんなイケメンのくせに俺なんかのためにころころ表情を変える鈴が何だか微笑ましくて、俺は鈴の頭をぽんぽん。と、撫でながら答える。きっと、その言葉は嘘にはならないだろう。彼女はきっと、これからも、空にいて少年を見守っていくんだ。
「……また、ガキ扱い」
頭を撫でられるのはまんざらでもないという顔をするくせに、やっぱり拗ねたみたいに鈴が言う。実際に年下なのだから仕方ないじゃないか。とは思うけれど、口にはしなかった。
拗ねた鈴は可愛いけれど、拗ねている時間は勿体ない。
「ガキ扱いなんてしてない。それより、あんまり時間ないから、弁当食って」
今日はたまたま鈴の休講の時間が俺の休憩時間と重なるから、お昼を一緒に食べようと約束して、一つ余分に弁当を作った。急なことだったから、特別なものは作れなかったけど、せめていつもより豪華に! と、デザートにプリンを作った。鈴の分だけ。兄ちゃんごめん。
弁当を渡すと、鈴は、さっきまでの拗ね顔はどこへやら、嬉しそうに笑って受け取った。
「菫さんのメシ、マジで美味いんで楽しみにしてました」
けれど、その笑顔は、一瞬にして怪訝そうな表情に変わる。
そう。スープジャーの蓋を開けた途端に。だ。
「え?」
中身は。なくなっていた。
「え?」
そう言えば、言った気がする。
お弁当食べる?って。あの子に。
「……うそ」
茫然とする鈴。茫然とする俺。
青い空に白い雲が眩しい日の出来事だった。
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