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三十年目のベンチ
「あなたとこのベンチに座るのも、これが最後ね」
沙苗が公園のベンチに腰掛け、散り始めた桜に目を細める。
隣に座る夫の源一郎が、目を丸くした。
「えっ」
可憐な綿菓子のような薄桃色の桜、その向こうにはコバルトブルーの青空が広がる。その鮮やかなコントラストに見入る沙苗。
沙苗は、五十代半ばの主婦だ。風に翻った上品な紫色のシフォンのスカーフを、淡いベージュのジャケットの上にゆるく巻き直している。
「取り壊されるんですって、この公園」
源一郎は僅かにホッとした様子で、
「そうか……寂しくなるな」
と答えた。
源一郎は、沙苗より四歳年上の五十代後半の男。きっちり櫛を通した白髪混じりの髪と、眉間に刻まれた皺が、彼の気難しい気性を表しているかのようだ。
二人が一緒になって三十回目の桜の季節が今、過ぎ去ろうとしていた。
ピピッ、ピピッ。
沙苗のスマホのアラーム音が鳴る。
沙苗はバッグを開けると、病院で処方された薬の袋をいくつも取り出した。
薬袋から数錠ずつを手の平に乗せ、ペットボトルの水と一緒に源一郎に渡してやる。
「はい。お薬とお水」
「ん」
顎を僅かに引いて、当然のように受け取る源一郎。
シルバー、オレンジ、水色、薄緑、カラフルなシートに包まれた錠剤を口の中に放り込むと、ごくりと水で一気に流し込む。
きゃははは。
初々しい少女と少年の声が、公園内にこだまする。
沙苗たちが座るベンチの前を、高校生くらいの男女が通りかかる。少年が手を繋ごうと試みるも少女の方は気づかず、少年の手は何度もむなしく宙を掻いていた。
そんな甘酸っぱい光景を微笑ましく見ていた沙苗が、悪戯っぽく振り返る。
「ねえ、覚えてる? 私たちの初めてのデート」
「そんな大昔のこと、覚えちゃいねえよ」
「まあ」
沙苗が、大袈裟に目を見開いた。
源一郎はそっぽを向くとぶっきらぼうに、
「からあげが美味かったな。このベンチで初めて食べた、お前の手作り弁当」
と呟いた。
「あなた、突然電話してくるんだもの」
「仕方ないだろ。急に会いたくなったんだ……お前に」
「あら」
沙苗の声のトーンが、一段高くなる。
源一郎は照れくさそうに、鼻を掻いた。
一方、沙苗は水を得た魚のように、在りし日の思い出を語り始める。
「加奈子の夜泣きが酷くて、私がこのベンチであやしてた時も」
「そりゃ、心配して迎えに行くだろ。残業から帰ったら、女房も子供も家にいないんだ」
沙苗が「ふふっ」と笑みを漏らした。
「もう勘弁してくれよ、昔の話は」
「誰にメシ、食わせてもらってんだ!」
突然、沙苗が叫んだ。
「……は?」
源一郎が、パチパチと瞬きをする。
「家で楽させてやってんだから、夕飯ぐらい用意しとけ!……ほら見える? 私のこめかみ、あなたに殴られた傷痕」
いつの間にか、沙苗の顔から表情が消えていた。ふいと髪を掻きあげると、沙苗のこめかみに古い傷跡が覗く。
バサリと、薬の入った袋が沙苗の膝の上から地面に落ちる。
沙苗がちらりと横目で見て、
「あ、落ちた。病院で貰った薬」
と呟いた。
「沙苗」
「拾ったら? あなたのでしょ」
「どうしたんだ……?」
いつもと様子の違う妻に、訝し気な視線を送る源一郎。
「初デートの時も、私の親友に直前でキャンセルされたから連絡くれたんですってね」
「何でそれを……あっ、いや」
「ちなみに、私が作ったお弁当のおかずはね、からあげじゃなくて、だし巻き卵。誰と間違えてるのかしら」
源一郎の額から、汗が滴り落ちる。
そんな夫を見て、沙苗が頬を紅潮させる。
「嬉しかった」
「さ、沙苗」
源一郎が、沙苗の手を取ろうと身を乗り出す。
スッとごく自然に、沙苗がベンチの端に寄って夫との間にスペースを空けた。
「そんなに大量の薬を飲んでいても、近いうちに私の介護なしでは生活出来なくなるって、さっきお医者様に聞いて」
焦る源一郎。
「なあ、聞いてくれ」
沙苗が大輪の花が咲きほころぶように、にっこりと笑う。
「待ってたから、あなたが一番苦しむタイミングで別れてやろうって。三十年間、ずーっと」
【完】
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