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第54話
「忍さん、覆面が着いたから移動ですよ」
「ん、ああ、早いな」
「一ノ瀬本部長経由、警視庁の覆面ですからね。まずはこれを着て下さい」
甲斐甲斐しく京哉は霧島にコートを着せ、自分もコートを羽織った。
それから喫煙室を出て歩き始めたが京哉はここでも緊張を余儀なくされる。ぐいぐい歩いては人にぶつかりそうになる霧島の、相手を見る目つきが尋常ではなかったからだ。
酷く荒んで剣呑な灰色の目に、誰もが目を伏せ道を譲っている。
もう本当に疲れ切って駐車場の覆面パトカーに霧島を押し込み自分も乗り込んだ。
だがそこからの道のりもかなりつらかった。後部座席ですぐに目を瞑った霧島だったがコートの襟まで冷たい汗で濡らし、足を小刻みに揺らしていたからだ。
徐々に揺れの振幅が大きくなり、京哉はその脚を宥めるように撫で続けた。
いつ叫び出すかという緊張に身を固くしながら見守ること約三時間、ようやく警視庁の覆面は県警本部庁舎の駐車場に滑り込む。降りるなり霧島が掠れた声で呟いた。
「サンドバッグでも殴りたい、いや、人でも殴り殺したい気分だな」
覆面を運転していた警視庁の私服がギョッとして霧島を見てから目を逸らした。有名人である霧島を知っている筈の私服に対し、京哉は曖昧に笑って見せながら礼を言う。
職場に戻ってきて京哉はもっと緊張したが、霧島は人前で大声を張り上げることもなく、表面上とはいえ涼しい表情を維持していた。喋らせまいと京哉は思う。
努力の甲斐あって本部庁舎十六階の県警本部長室に着くまで必要以上に人目を惹くことはなかった。秘書室をノックし秘書要員の顔を見て京哉は心底ホッとする。
入室を許可されて踏み入った本部長室では一ノ瀬本部長と、サシで待たされ緊張し切った小田切がソファに座していた。霧島と京哉を見るなり本部長は立ち上がりソファを勧めてくれる。制服婦警も熱いコーヒーを出してくれた。
「ほら、座ってコーヒーでも飲んでくれたまえ」
だが霧島は意味もなく立ち尽くしたまま、辛うじてソーサー付きのコーヒーカップを手にする。その霧島からは暴発寸前の強烈な苛立ちが伝わってきて見守る京哉も座る余裕などない。京哉から報告を受けていた本部長は僅かに痛ましそうな顔をした。
事情を知っているのだろう、小田切もいつものようなふざけた口を利いたりしない。
無理に二人を座らせることなく一ノ瀬本部長が二人を労う言葉を口にする。
「よくぞ生きて帰ってきてくれた。県警捜査員としての本分を遥かに越えた命令まで見事にこなしてくれたお蔭で護られるべきを護ることができた。政府を通じて国連事務総長からも謝辞を頂いている。本当に良くやってくれた。心から礼を言う」
礼などよりも霧島が安心して療養できる環境が欲しい京哉は本部長に訊いた。
「それで病院の手配はどうなっているんでしょうか?」
「小田切くんに白藤大学付属病院に送らせる。特別室も無論、押さえてある」
そのとき大音響がし、全員がギョッとした。手を滑らせたのか故意に叩きつけたのか分からないが霧島がコーヒーカップをソーサーごとロウテーブルに落としたのだ。
だが眺めるうちに霧島はこなごなに割れたコーヒーカップを素手でかき集め始めてしまう。当然ながら霧島の手は流血の大惨事だ。ロウテーブルも血痕だらけで事件現場さながらである。
言葉を失った京哉と小田切に本部長の前で霧島は陶器の小山を手ですくい上げ、幾度も往復して部屋の隅にあるゴミ箱に投下し、今度は室内をうろうろと歩き出す。
苛立ちからじっとしていられない様子の霧島を横目に、細かな破片と異様な血痕は京哉がハンカチで寄せ集めて拭き始末した。その間に本部長が秘書室から救急箱を調達してくる。そして京哉は霧島の傍で一緒に歩き回りながら座るよう説得だ。
説得しつつ本部長が秘書室や医務室の人員を呼ばなかったことに京哉は感謝していた。こんな状態の霧島を必要以上に人目に晒したくなかったからである。
だが応急処置をするのも一苦労だった。何せ大人しく座っていない。都合十五分もかけて京哉と小田切は霧島の両手に刺さった破片を取り除き、消毒して深い傷は絆創膏で保護した。
そのあと事態を重く見た本部長は京哉と小田切に頷いて送り出してくれる。
京哉は置きっ放しだった白いセダンの助手席に霧島、後部座席に付き添いとして小田切を乗せ、早々に白藤大学付属病院に向かった。二十分ほどで辿り着く。
駐車場にセダンを駐めて指示されていた外科病棟に行くと、そのまま霧島は特別室に入院となった。京哉も同じ病室で寝泊まりできるようベッドを増やして貰う。
取り敢えず霧島は鎮静剤と睡眠薬を投与され、ようやく眠りに就いた。
しっかり眠っているのを確認してから、京哉は小田切と共にナースステーションの一角で今後の治療計画について本来は外科ではない医師から話を聞いた。
「点滴と鎮静剤での治療が主になりますが、日本国内では出回っていない薬物ですので、どのくらいで離脱症状が治まるのか予想が全くつきません――」
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