第55話

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第55話

 一方の霧島は一人になって数分と経たず酷い悪夢を見て飛び起きた。  唸り声を耳にしてビクリとするが、それはナイトメアに怯える自分の声だった。  着替える余裕もなく寝入ったため、汗で濡れて貼り付く衣服に過剰な不快感を覚えながら病室内を見回したが京哉はいない。底知れぬ不安に駆られてベッドを滑り降りて靴を履いた。  しんと静まり返った室内で立ち尽くす。  悪夢の主人公は京哉だった。無事を確認したくて堪らない。  それでも携帯で連絡することすら思い至らず、取り憑いて離れない焦燥感と不安が胃を握り潰してでもいるようだった。病室内をうろうろと歩き回り、付属しているシャワーブースやトイレまで覗いては京哉を呼びながら狭い室内を彷徨う。  もはや涼しい顔など維持できず、点滴も既にぶち切ってしまっていた。  焦燥感と止まらない破壊衝動が突き上がってきて、こぶしを壁に叩きつけた。壁が壊れないのは勿論だが、怒りを弾き返された気分になって余計に苛立ちが募った。   「くそう……京哉、何処だ、京哉!」  ロクに出ない声で叫び何度も壁を殴った。リミッタの外れた力が壁よりも霧島を壊してゆく。クリーム色の壁に幾つもの赤い痕が付き、こぶしを振り上げるたびに血飛沫が模様を描いた。そのうち壁材が僅かに凹み所々は塗装が剥がれ建材が露出する。  恐るべき力で破壊行動に出ながら、ふいに京哉と壁に何の相関関係もないのに気付いて殴り止めた。だがなけなしの思考で絞り出したのはこの部屋から出て探しに行くという非常に拙いプランだった。拙さにも気付かず霧島は実行に移す。  枕元のキャビネットにあった銃入りのホルスタまで装着しジャケットを着た。  特別室を出るとエレベーターまで廊下を走る。途中でナースステーションを覗くことすら思いつかない。運悪くエレベーターが一基、丁度この階に止まっていた。  エレベーターで一階に降りるまでの間、二回停止し人が乗ってきた。彼らの不審な態度を見て何事かと思ったが、霧島は自分が手から血を滴らせ掠れ声で京哉を呼び続けている事実にも気付かない。文字通り足踏みしながらエレベーター内を過ごす。  もどかしく一階で自動ドアが開くのを待ち、飛び出すなりロビーを駆け抜けた。すると貧血か心臓は狂ったリズムで暴れたが他人事のように無視して喘ぎつつ走った。  エントランスを出て暑くないのに怪訝な思いを抱く。まだ意識は半分ビオーラのままという霧島だった。訝しい思いで辺りのビル群を見上げる。目は勝手に京哉が狙撃したビルを探している。ふいに白いドレスが血塗れとなった画がフラッシュバック。  赤く染まったドレスが霧島の中で京哉のドレスシャツに変わった――。 「京哉……京哉!」  突然にして京哉が撃たれた幻覚が霧島の中でリアルに根付いてしまっていた。凍えるような恐怖が心臓を締め上げる。  心に血塗れの京哉を抱き、実際の視覚では自分と常に共にいる、自然で当たり前の京哉の姿を求めて見回すうちに眩暈に襲われた。だが京哉を探しに行かなければと思い歩き出す。  何度も唾を飲み込んで眩暈に耐えながら大通りへと向かった。狙撃ポイントのビルを探して病院の敷地を抜け、歩道を横切り大通りに足を踏み出す。  途端にクラクションが鳴って飛び上がるほど驚いた。片側四車線の交通量も多い車道にいきなり飛び出したのである。霧島を撥ねる寸前で空車のタクシーが急停止。  それでも驚きから脱した霧島は構わず大通りを渡り始めた。  クラクションがビィビィ鳴らされ交通網が麻痺する。そんな中、玉突き衝突寸前で止まったトラックの運転手が腹を立て、出てくるなり霧島の腕を掴んだ。 「てめぇ、何してんだ! 警察に突き出してやる!」 「警察だと? 警察ならここにいるぞ!」  相手の男に掴まれた腕を振り払った霧島はこぶしを振り上げていた。だが男を殴りつける寸前で手首を掴まれる。ジャケットの袖を見て振り返ると、そこには小田切と京哉がいた。痛みが走るほどの強い力で掴まれ、怒りの矛先が小田切へと向く。 「つうっ……くそう、離せ!」  左のこぶしが小田切の頬を捉える前に霧島の長身がふわりと浮いた。 「恨まないでくれよ、霧島隊長」  聞こえたのは鮮やかに一本背負いされ、アスファルトで背中を強打されてからだった。声も出せないほどの衝撃で息を詰まらせる。手加減されたか気を失うほどではなかったが、次には思い切り咳き込んで、まともに息も吸えず全身を苦痛に喘がせた。 「忍さんっ!」  縋りついた京哉に抱き起こされる。霧島は血の混じった唾を吐いた。何故撃たれた筈の京哉がここにいるのかと不思議に思う半面、背負い投げられた衝撃で現実をやや取り戻していて何となく納得する。手を貸されて立ち上がった。  トラックの男に京哉が平謝りし小田切と京哉に両側から支えられるようにして病院側の歩道まで渡る。そこまで歩いただけで霧島の心臓は破れそうに鼓動を刻んだ。  ようやく辿り着いた特別室では難しい顔をした医師と看護師が待っていて、霧島は右手の応急処置を受けてから検査に回された。そこで発見されたのが声帯の損傷と右手首のヒビである。しかし外科的な言葉を羅列されても霧島には響かない。  これまで特別任務で京哉ともども重傷を負ってきたので、大したことだと思えないのだ。  一方では悲愴な顔をした京哉に、医師が溜息混じりに壁の血痕を目で示している。 「これだけ壁を殴って骨折しなかったのは奇跡ですよ。固定して全治二週間といったところでしょう。しかし申し上げにくいのですが、うちでお預かりするには、ちょっと難しいかと……」  医師に精神科の病院を紹介された。ここは総合病院で精神科もあるが特別室で内密に治療するという条件を揃えられない。その点、個人病院ならカネで何とでもなる。  だが京哉は霧島を閉鎖病棟に入れるのを拒否して自宅につれ帰ると決めた。別に精神科に対して偏見はないが、ずっと離れず霧島の傍についていたかったのだ。 「京哉くん、相当覚悟が要るぜ?」 「分かってますし、とうに覚悟なんて出来てますよ」 「けど、まともにやり合ったら俺でも敵わないのに、本当にいいのかい?」 「そこまで持ち込ませませんから。大丈夫だ、心配ない。ってね」  霧島の口癖を真似てみせた京哉に、小田切は珍しくも憂い顔で何度も言い募ったが京哉の決意は固かった。今は至極まともに思える霧島本人もマンションの自宅に帰るのが当然のような物言いをする。  そんな二人を暫し見つめた小田切は白いセダンまで見送ってくれた。
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