第二章

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 それから長い廊下を渡り元々潤の部屋があったであろう一室で、家内によって用意されていた紺色に染められた着物に袖を通すと不思議と心休まる感覚に陥る。  独特の畳とお香の薫りが周りに漂い、一度だけ深呼吸をした。  ──俺は見合いの話を断ればいいだけなんだ。そう、好意を抱いている男性がいる、そう言うだけで済む話なのに……。  碧の顔と元カノである紗花の顔が彼の脳内で交互にちらつく。  もし、このお見合いを断ったとして碧と確実に幸せになれる確証なんてない。  ましてや碧は自分のせいで将来や恋愛について思い詰めてしまっているのだから、一度好きになった女性と結婚した方が碧も自分も幸せになれるのではないか、と思ってしまうのだ。  すると、不意に襖の奥から声が聞こえてきた。  どうやら此処に案内してから何処かへ去ってしまっていた善が戻ってきたようである。 「……潤兄、お着物の着付けお手伝いしましょうか?」  名前の呼び方は家族によくある親しみ深いものだというのに襖の一枚越しに敬語が飛び交う。  どことなく寂しさも感じられるが家庭の事情に首を突っ込み口出しする訳にもいかない。 「嗚呼、それはありがたいです。部屋が寒いからか、あまり手が上手く動かなくて……」  潤の返答聞くと襖がゆっくりと心地よい音を立てて開いた。弟とはいえ、半分着物がはだけた状態を見られるのは何だかこっ恥ずかしい。  「失礼致します」と上品な言葉を発して、善は彼の着物に手を掛ける。  しかし、幾ら時間が経っても着物に添えられた手が動くことはなかった。  流石に疑問を抱いたのか、彼が不図、善の顔を見ると善は微かに頬を赤らめて唇をぎゅっと噛み何処か辛そうな表情をしている。 「……善、お前──」 「あっ、申し訳ありません。別のことを考えていたらつい……」  善は潤の問いにハッとした顔をして直ぐに口をパクパクとさせて謝罪をした。一度着物から離してしまった手を再び着物に添え、慣れた手つきで丁寧に着付けていく。  彼は善の頬に一滴の汗が滲み垂れているのを見逃さなかった。 「別のことって?」  ど直球に思春期の青年にプライベートなことを聞いていいのか分からなかったが、弟のことなのだから知らなくてはならないと潤は思ってしまったのであろう。  無意識に口から言葉を吐き捨てていた。正直に言えばこれから善が話す大半のことは察していたが。 「……潤兄は僕の恋愛対象が男性だと言ったら引きますか?」  善は彼の質問から数秒時間を置いて、真剣な声色で呟く。  着付けをする為に自分の側に屈んで寂しそうに、苦しそうに、辛そうに、上目遣いで此方を見る善に卑劣な言葉を吐ける訳がない。潤は黙ってゆっくりと首を横に振った。 「その、別に潤兄の身体に欲情した訳ではないですよ? けれど不図、思うんです。凛兄が男と付き合ってるって言って家を出て行って、こうして僕も男が好きで……。いつか僕が家を継ぐ為に好きになれない女性と結婚することになるのかなって」  次々と連なられる善の言葉に潤は頭がおかしくなりそうになる。否、もう頭は真っ白で何も考えられなかったのだ。  仮に自分がお見合いを断ったとして、善が如何なるか考えたくもなかった。  それぞれの知っている事や対応はこれからの違うが、きっと潤も凛も善も同じ立ち位置にいるのであろう。 「お、俺の身体は男前だから欲情しても仕方あるまい」  取り敢えず、何かを口にしなければ……そう感じて出た台詞がこれだ。どうしても聞きたくなかったと言ったら分かりやすいかもしれない。  この後、善が吐くと思われる彼の行動を縛り付ける言葉を。 「ふふっ、潤兄もジョークなんて言うんですね。僕、潤兄がいるから結婚して子供を生まずに済むって今まで爆発しそうな心を保てたんです」  ──やめろ、言うな。  何故か、今の瞬間だけは、外からの騒音が耳へと繊細に届いてくる。  寒ささえ感じ取れる風の音、普段は煩く感じる車の音、心を落ち着かせる池の水が流れる音、騒がしい家内の人達の話し声……。 「ねえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……?」  確かに自分の肌に触れていた手が生まれたての子鹿のように震えている。  また、透き通ったその声も触れたら壊れてしまいそうな程にか細いものだった。言いたくないという心の底の思いとは裏腹に、彼の口から出るのは必然的に正反対の言葉となってしまう。 「そんなこと言うわけないじゃないですか。善は善が選んだ好きな人と人生を歩んでください」  きっと今まで恋愛対象や未来について死ぬほど悩んで、思い詰めて、泣くほど苦しい思いをしてきたのだろう。  そう感じてしまえば、思わず心にも思っていないことを発するのは容易かった。  この言葉を発した時に見た善の救われた、という今にも涙を流しそうな笑顔は少しばかり心の救いになったのかもしれない。  気付けば無意識に善を抱きしめていた。
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