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こんなに寒いというのに扉が全開になっている客間。
縁側から見える広い庭には玄関へ行く時に見えた桜の木が堂々と立っている。
また、部屋の隅には豪華で華麗な色とりどりの美しい花々が生けており、意識すればスッと香る匂いのお陰で潤はどうにか心の平常心を保てていた。
「もう直ぐ紗花さんがお見えになるのですから、背筋を伸ばしなさい。はぁ……本当に顔以外取り柄がないんだから」
「……すみません」
痺れを切らして苛々をぶつけてくる母親に少々嫌気が差すが、先程の善の言葉も相まり此処から逃げ出す訳にはいかない。
彼は黙って母親の指示に従うことにした。
因みに母親の隣には如何にもイケオジ感が漂う怖い顔立ちをした父親がムスッとした顔で座っている。
暫くすると、縁側の方から複数人が此方へ向かう足音が聞こえてきた。久しぶりに元カノと会う緊張からか潤の心臓の音が段々と激しくなっていく。
「久しぶりやなあ、潤くん……元気しちょった?」
一見、解読不可能な薩摩弁交じりの挨拶とアニメに出てきそうな女の子らしい優しげな声が潤の耳に届く。
以前に聞いた事のある懐かしい雰囲気に思わず、彼は声の方へ顔を上げてしまった。
「……紗花」
頬を抓り続けていないと、飲まこまれそうになるくらいに綺麗で独特なフレンチローズ色の瞳にふんわりとした艷やかな桜色のショートボブ。
それらはあの頃と何一つ変わっていない。敢えて言うならば小柄な身長さえも全く変わっていなかった。
「なんか私と違うて潤くんは変わったね。見た目は変わっちょらんのやじゃっどん、表情とか顔付き……とか」
驚いたように口をパクパクとさせながら彼女は言う。
要するに『私と違って潤くんは変わったね。
見た目は変わっていないんだけど、表情とか顔付き……とか』と発しているらしい。
彼女が方言を使う事は勿論知っていただろうが、それを理解できるかはまた別の話のようだ。
母親は焦って此方を見て助けを求めている。
「え、えっと、そうか……?」
取り敢えず母親の事は気に留めずに彼女に返事をした。
当然、中学時代に二人で会話をしているのだから、ある程度は薩摩弁を理解することができる。忘れている翻訳という名の言葉も少しはあるだろうが……。
「潤くん、単刀直入にゆどん私、高校が離れ離れになってからもずっと潤くんが好いちょったと。といえしてくれんかな?」
真剣な顔付きで婚姻届を机に置くと、彼女は頬を赤らめながら大きな声で叫ぶように話す。
その様子に潤に限らず彼女の両親や彼の両親までもぽかんと口を開けっ放しにしている。
「えっ?」
「えっ!?」
「えっ!」
無意識に潤の両親、潤、紗花の両親の順番で綺麗に『えっ』と言葉を発していく。
詳細を言うと多分、上から話している言葉の内容が全く理解できないよの『えっ?』、俺もしかしてここで結婚の申し込みされてるのかの『えっ!?』、もう紗花ちゃんったら積極的なんだからの『えっ!』であろう。
そう、薄々皆が勘付いていたように彼女は堂々と今この瞬間プロポーズをしたのだ。
「そいで、潤くんな私とはといえしよごたなかんと……?」
因みに彼女は今、私とは結婚したくないのか、と問うている。
突然のプロポーズに潤は自分が如何したらいいのかわけが分からなくなった。
不図、目線を彼女から逸らすと同時に母親と目がしっかりと合ってしまう。口に出されていなくても早くプロポーズを承諾しなさい、と言っていることがわかる目だ。
しかし、運が良いのか悪いのか懐に忍ばせておいた潤の携帯が大きな音を立てて鳴り響いた。
どうやら誰かから電話が掛かって来たようである。
さり気なく申し訳ないと言わんばかりに小さく頭を下げると、潤は空気も読まずに平然と電話に出た。
普通お見合い中に電話に出るなんてことはあり得ないだろう。
『……も、もしもしっ!? 潤、落ち着いて聞いてね。あ、碧が事故にあって救急車に運ばれちゃったんだ。俺も聞いたばかりで容態が分からないんだけど、早く病院へ──』
この恐ろしい知らせに潤は電話越しから聞こえる結弦の声が次第に上手く聞き取れなくなっていった。
現実を受け入れることが出来なかったのだ。
動揺から物すらもきちんと掴めず、潤の手の中にある携帯電話がゆっくりと畳の上に落ちていく。
声も出ない。瞬きすらできない。
心配そうに此方を見つめる紗花の初々しい困り顔までもが彼を混乱に陥れている。
気付けば潤は両親の話も聞かずに直ぐ様、縁側の側に置いてあった予備の下駄を履いて、急いで外へ飛び出していた。
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