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 弁護士から遺言状を読み上げられた時から、A氏は愛人なのではないか、という疑問は浮かんでいた。それでも認めたくも考えたくもなかった。  愛情があったのか今となっては分からないが、夫婦関係は良好であったし、主人から大切に扱われている事は分かっていた。  だから余計認めたくないのだ。  沙耶子は、弁護士の言葉を思い出した。 「自主的にお調べになる事は咎めません」  確かにそう言った。  沙耶子は意を決して書斎に向かった。  今まで殆ど立ち入った事のない、主人の書斎。  仕事に関する書籍や書類は主人の会社の人間が持ち出してしまった為、隙間だらけの本棚が主人の居なくなった書斎の寂しさを強調していた。  主人は羽振りが良かったが、細かい性格でもあった。仕事の帳簿も家計簿もつけていたし、日記も欠かさず書いていた。  沙耶子は、日記を読めばA氏に関する何かしらが分かるのではないかと踏んだのだ。  一つの本棚に、三年日記帳が収納されていた。  その中で一番古い年月の日記帳は、先の大戦より前であった。二十数年分の日記を前に、沙耶子は軽い眩暈を感じた。  問題のA氏がいつ、どこで登場するか見当もつかぬから、新しい年月の日記帳から遡って読む事にした。  日記帳を一冊手に取って、チェアに腰掛ける。  程よく体が沈み、高級な皮が香った。  生前の主人はここに座って読書をしたり、帳簿を書いたり、日記を書いたりしていたのね、と少し感傷に浸った。  パラパラと日記帳のページを捲ってゆく。  大体が仕事に関しての事で、何時に誰某が来ただとか簡潔に記されていた。そして、沙耶子との生活についても書かれていた。どんな会話をしたか、夕食に何を食べたか等々、何気ない日常の一コマを切り取って書かれていた。 (こんな、私も覚えていない事を――)  更に感傷に浸っていた沙耶子だが、次のページを捲った時、どきりと心臓が跳ね上がった。  整った文中に「●●」と塗りつぶされた文字があった。  その前後の文から、人の名前である事が分かる。  電球に透かして見たが、黒い丸があるだけで、文字の痕跡は見つけられなかった。どうやら、元々黒い丸だけを書いた様である。  これが愛人に違いない。沙耶子は確信した。  次のページからは内容をほぼ読まず、「●●」だけを探して捲った。  タエが心配する程熱中して、十年分を捲った。  分かったのは、その人物と主人の交流は三年前からという事と、主人が開いていた私塾の生徒であったという事である。 (あの集まりに女の人なんて滅多に来なかったはず)  沙耶子は、主人の私塾になんの関心も抱いていなかった。ただ、来訪する学生達を出迎えて挨拶を交わしたり、たまに茶菓子の差し入れをした程度だった。  生徒の殆どが男であった。  稀に男子生徒に誘われて参加する学生らしき女も居たが、やはり男ばかりの集まりだから、長続きはしなかった。  沙耶子は参加した女達がつまらなそうに資料を捲ったり、爪をカリカリと弄ったり、退屈そうにしている様を思い出した。  主人を慕う程通っていた女子生徒は、記憶の中には居ない。  もっと読めば何かヒントが掴めるかもしれない。  沙耶子は日記帳を寝室に持ち帰った。
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