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5.
そう言われてはぐうの音も出ない、俺は諦めてソファに戻りアレックスの入れてくれたコーヒーをいただいた。アレックスもソファに座り、今回のクルーズについて話をする。
どうやら今回のクルーズ旅行のチケットは友人からのプレゼントだったそうだ。そしてやはり一緒に旅行を予定していた恋人がいたそうなのだが、旅行を前にして別れてしまったらしい。それでもアレックスは一人でクルーズ旅行に参加したわけだ。
「失礼ですが参加をやめようとは思われなかったのですか?」
「だって、せっかく友人がチケットをプレゼントしてくれたのに使わないなんてあり得ないだろう? 恋人と別れたからといって使わないなんて」
俺はうなずきながらも、どうして恋人と別れてしまったんだろうと思いつつも、聞くことなどできなかった。
「だけど、一人で参加してるとさみしいものだね」
やはり寂しかったのか、とそれを聞いて俺はアレックスに頭を下げた。
「申し訳ございません、そんな寂しい思いをさせてしまって」
「何故、君が謝るんだ? これは私の問題だろう?」
「いえ、お一人様のお客様でも楽しく癒やされるクルーズを提供することが私どもクルーの仕事です。アレックス様がこうして寂しく思われていたなら私たちの力不足です」
俺はこの船に乗船するすべてのお客様に笑顔でいて欲しい。そう願いながら仕事をしているのだ。
「あと三日間、私がアレックス様を寂しい思いをさせないようにいたします」
そう言い切るとアレックスは驚いたような顔を見せたが、やがて笑いはじめる。
「君はこの船が大好きなんだね」
俺がうなずくとふうんとアレックスはまた笑う。
「じゃあ、お願いしよう。ミスター烏川」
その夜は一時間くらい雑談をして部屋を出た。翌日からどんな感じに接しようかと思っていたが、自分から声をかけるから君は仕事を今までこなしてくれ、とアレックスは言っていた。
そのとおり、日中にアレックスが声をかけてくるのは船内ですれ違ったり、レストランで顔を見かけたときくらいだった。食事をとっていた彼に給仕しているときに『君を見かけるだけでも私は嬉しくなるよ』なんてことをアレックスが言ってきたので俺は深く会釈をして笑ったが、どうにもこの人たらしな性格にドキドキしてしまう。
きっといろんな女性にもこんな感じにいっているんだろうな……
アレックスからお声がかかったのはその日の夜だった。
ソファに座り、隣にアレックスが腰を下ろす。昨日と同じくコーヒーを淹れてくれた。アレックスが話していた中でも興味深かったのは『葉巻』。どうやら彼は葉巻を愛用しているらしい。自分の周りには葉巻を吸う人なんていないので興味津々だ。葉巻なんてマフィアのボスとかが愛用しているイメージしかない。俺が正直にそう言うとアレックスは大笑いした。
「さすがにこの船の中で吸うわけには行かないから、我慢しているけどね。いいシガーバーが赤坂にあるから、帰港したらすぐ行かないと身が持たないよ」」
「シガーバー?」
「葉巻を吸うバーだよ。アルコールや軽食の提供もあって」
俺は葉巻を吸うアレックスを想像して、うーんと唸る。どうしても腕っ節の強そうな人が嗜むイメージしかなくて、目の前のスタイリッシュな彼が葉巻を嗜む姿が想像できない。
「気になる?」
アレックスが顔を近づけて覗き込んできたから驚いて思わず、のけぞってしまった。
「そうですね、葉巻を嗜まれているお姿を見れなくて、残念です」
どうにか平常心を保ってはいるが、いちいち距離が近くて、どうにかなってしまいそうだ。
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