1.

1/1
前へ
/12ページ
次へ

1.

国内外のクルージングが楽しめる客船『ウイングスオーシャン』は、歴史のある豪華客船で全長二百メートルという国内の客船でも上位の大きさを誇っている。『ゆっくりとした優雅な時間を嗜んでみませんか』そんなコピーを掲げる、人気のある客船だ。日本国内の乗客はもちろん、海外からの乗客も多い。クルーズの中身は日本の四季を感じられる寄港地を選んだものや記念びに合わせたクルーズ、日本一周など種類が豊富だ。 『ウイングスオーシャン』が寄港すると、その地元ではちょっとしたニュースとなるくらい大人から子供までこの客船に惹かれていた。俺、烏川崇彦(からすかわたかひこ)もその一人だ。 小学生の時に見た『ウイングスオーシャン』の姿に俺は大きな衝撃を受けた。こんな巨大な建造物が海に浮いて動くなんて、信じられなかった。 『この船に乗って、海を見てみたい!』 俺はその夢をずっと、追うことになった。そしていつの間にか『客船に乗ってみたい』と言う思いは年齢を重ねるにつれて『客船で働きたい』に変わっていった。 高校を卒業し、進んだのはホテル業界の専門学校。まずはホテルでの修行後に客船クルーになるという経歴が多いと知ったからだ。専門学校を卒業後に親元を離れ、上京して就職したのは外資系のホテル。その頃東京はホテルがオープンラッシュで就職したホテル開業になったばかり。外資系ということで海外からのお客様が多く、それだけに語学力も接客も、徹底的に鍛えられた。 客船には海外の乗客も多いから外資系のホテルはうってつけの職場。英会話は若干苦手意識があったものの、実践していくうちに慣れていった。ホテルでの仕事にやりがいを感じて『このままでもいいかな』なんてちょっとばかり思っていたこともあったけれど。 最終的に、やはりあの時に見た客船で働きたくて、ホテルに就職して四年後に『ウイングスオーシャン』の接客クルーの求人があったから、面接を受け見事合格、採用となったのだ。 *** きっちりとプレスされたカッターシャツに紺色のベスト。『ウイングスオーシャン』を形取ったピンブローチをつけ、蝶ネクタイをする。清潔感あふれる格好を求められるため、耳の上まで刈り込んだ髪。黒くて硬く、直毛な髪の毛は、俺の苗字の『烏(からす)』そのものだと上司である篠宮(しのみや)マネージャーに言われたっけ。 俺はクルーズホテル部門のスタッフとして、いろんな業務を行なっている。レストランフロアでの接客応対やショップスタッフ、船内での乗客案内など多岐に渡り、以前勤めていた外資系ホテルよりもはっきりいって忙しい。 それでもこの船が大好きで、クルーズスタッフとして支えているんだという誇りで俺は二年間頑張ってきた。だけど、最近どうも調子が悪い。小さなミスを繰り返したり、時間を間違えたり。まだ乗客に迷惑をかけるくらいのミスはないが、そのうちやってしまいそうで。そんな状況を見かねた先輩の山下さんに、慣れてきて少し緊張感がなくなってるんじゃないのか、と言われてしまった。 なぜ調子が悪いのか、自分では何となく分かっている。目標としていた仕事に就けて、順調になって自分のプライベートを振り返った時、仕事から戻ればクタクタで、寝てばかり。友人たちと遊んだり会ったりする気力もない。ホテル勤務の時には恋人はいたけれど、破局後は仕事に夢中で、特定の人を作る気力がなかった。そもそも出会いが少ないということもあるけれど。 ふと、思ってしまったのだ。俺、ずっとこのままなのかな、なんてことを。それを考え始めてから仕事をミスすることが増えてしまったのだ。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

93人が本棚に入れています
本棚に追加