4.

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「ああ、笑ってすまない。安心して、悲しい感情じゃないから」 そう言いながらハンカチを俺の手に戻す。その握られた彼の手は冷え切っていた。 悲しい感情ではないとはどういうことなのか、詮索することはできない。俺が戸惑っていることに気づいたようで、アレックスはまた口を開く。 「昨日、勧めてくれたお酒美味しかったよ。あの刺身によく合ってた」 昨夜『とまり木』で言葉を交わしたクルーが俺だったのを彼が覚えていたことに驚く。 「お口に合って良かったです。ここは寒いですから、どうぞお部屋にお戻りください」 そう促すと、彼は俺の顔を見ながらこう言った。 「そうだ、私は今回のクルーズ一人で参加しているんだけど今から部屋に来ない?そして良かったらこのクルーズの間、一緒に過ごしてくれないか」 突然のアレックスの申し出に俺はまた驚いてしまった。こんなことを乗客から言われること事態初めてだし、乗客の部屋に行くなんて厳禁に決まっている。 「お、恐れ入ります。それは出来かねます」 「何故? ただ一緒に部屋にいてくれるだけでいいんだ。もうこんな時間だから長居してもらうつもりはないし」 意外に押しが強い。しかもさっきからずっと手を握られたままだ。そういう『誘い』の意味ではないだろうな、と思いながら俺は返事が出来ない。 「ああ、そうだ。何かあったら私の名前をチーフに出すと良いよ」 「?」 「この船のオーナーは私の知り合いだからね、チーフなら私の名前を知っているはずだし、君を優遇することなんて朝飯前さ」 半分脅しのようなその言葉に思わず息をのんだ。『ウイングスオーシャン』は当然個人の持ち物ではない。彼の言うオーナーとはこの船を所有し運航している翼カンパニーの社長の事だろう。そんな知り合いがまさか乗船しているなんて思わないし、この若さでなんで社長と知り合いなのだろうと色々考えてしまい、俺は口を開けたまま突っ立っていた。 「ウイングススイートの一〇三号室で待っているから」 そういうとアレックスは握っていた手を離し、客室へと戻っていってしまった。 その後、俺は迷ったあげく、結局アレックスの指定した部屋へと向かうことにした。社長と本当に知り合いなのか分からないけれど、もし本当だったら機嫌を損ねてしまう方が怖い。それに俺自身がアレックスに興味があるものだから仕方がない。 アレックスが宿泊している『ウイングススイート』はこの客船に四つしかないスイートルームだ。八十平米越えの広さで、リビング、バスルーム、ベッドルームが独立しておりバスタブにつかりながら窓の外の大海原を見ることが出来るという豪華な作りとなっている。 そんな部屋の前に立ち、俺は制服のままドアをノックすると、中からアレックスが出てきて俺を迎え入れる。海風で冷えた体をシャワーで温めていたのだろうか、ふんわりとシャンプーの良い香りがした。そしてオールバックにしていた髪を下ろしていて、ビジネスマンからトーンダウンした姿にまた、目を奪われてしまう。少し若く見え、可愛いとさえ思えてきて、たまらない。 「待っていたよ、さあどうぞ」 ブルーを基調としたインテリアにクリームのカーペット。スイートにふさわしいインテリアだ。ソファに座るように言われて座ったものの、アレックスが二つ、カップを取り出しコーヒーを入れようとするのを見て俺は慌てて駆け寄る。 「いけません、お客様にそんなことをしていただいては……」 そう言うとアレックスはカップを俺にとられまいとしてさっとよけた。 「この部屋の主は今、私だ。お客様は君なのだから、当然のことだろう?」
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