93人が本棚に入れています
本棚に追加
9.
自分から連絡すると言うのはかなりしんどい。待つ方ならよかったのに。
それから一カ月後。クルーズの出航が数時間後に迫っている中、ラウンジに置いている備品の最終チェックを行っていた。船出には天気の情報と、ニュースが必要。数種類の新聞紙を準備している。全国紙、地方紙、経済誌と幅広く揃えているのだ。その一つ、日刊の経済誌を所定の場所に置く時にそれがたまたま目に入った。
「あれ……」
小さなコラムで、筆者の写真が載っていた。その写真がアレックス本人であることに俺は驚いたが、あの夜、商社で役員をしているとアレックスが言っていたことを思い出した。
(経済誌に載るほど有名なのか)
あたりに他のクルーがいないので、俺はそのコラムを読み始めた。昨今の景気の話、株の動向など経済にまつわる話のあとに話題が変わり、ホスピタリティの話となった時。とある客船に乗った話が書いてあった。
『ひとりの愛あふれるホスピタリティ魂を持つクルーに出会えたことに、感謝したい』
その言葉に息を呑み、胸が高まる。自分だと思うのはおこがましいだろうか。俺は経済誌を元に戻し、ラウンジを後にして、慌ててスタッフルームまで戻り、置いている財布の中にしまっていたメモを取り出した。アレックスが書いたそのアドレスをスマホにいれ、文字を入力していく。乗船のお礼、連絡が遅くなったことのお詫び、そして出会えたことの感謝を綴って送った。一呼吸置いて、送信をタップする。
セフレとかどうとか、関係なく。純粋にもう一度会いたい。アレックスの『ウイングスオーシャン』での思い出がよいものになっているうちに。そんな単純なことなのに俺はどうして恐れているばかりだったんだろう。
数時間の休憩のときに、スマホにアレックスからの返信が入っていることに気づく。忙しい中、返信してくれたのだろうか。それはとても短い文章だった。
『遅いよ 二月三日 二十時に』
その後にリンクが貼ってあったのでタップしてみると、画面に表示されたのは赤坂のシガーバーのサイトだった。地図も記載されている。恐らくここで記載されている日時に待っているということなのだろう。
ふとこの日にちが気になり、自分の勤務予定を調べると前日に乗船予定の船が帰港し、そのあとのクルーズは一週間後であることがわかった。もしかしたら、アレックスは『ウイングスオーシャン』のサイトからクルーズツアーを確認したうえで、日にちを指定したのだろうか。
俺はすぐさま、スマホのスケジュール帳にそのサイトをコピーして貼り付けた。
***
指定された店に、記載してあった時間に到着した。地下にあるその店は入り口からしてまるで隠れ家のようだ。この扉の向こうにアレックスがいる。
あのクルーズが終わった日からそのうち消えるだろうと思っていた彼の存在感は消えるどころか増していくばかりだった。そんな彼がすぐそばにいる。俺は胸の鼓動が早くなっていくことに気づきながら目の前の重い扉を開けた。
独特な香りと煙がふわっと体にまとわりつく。タバコとは違う重厚で濃厚な香り。これが葉巻の煙なのか。
カウンターに八席、テーブル席は二つしかないような小さなバー。客はまばらだ。その中で見つけたのはカウンター席に座る金髪の男。アレックスだ。淡い間接照明に映し出されるその端正な顔に、左手の親指と人差し指の間には煙が揺蕩う葉巻。アレックスの今まで見てきた品行方正なイメージが崩れてワイルドな雰囲気。スーツを着ていたクルーズの時と違い、ラフな私服のせいでもあるかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!