前 編

1/1
前へ
/1ページ
次へ

前 編

               (1) 『後期高齢者』という有り難くない呼称が付くと、流石に体の様々な部位の支障を自覚する。「名は体を表す」ごとし。  年金生活者の呉竹光彦の場合、健康保険の窓口での自己負担額が一割となるのだが、従来では受診しなかった程度の自覚症状でも、この機会にと診療科目が約三倍に増えてしまい、節約どころか皮肉にも医療費の合計は以前より増えた。新たに発見される疾病もあり、通院や処方箋の頻度も増加した。  人生100年時代の今日、予防的見地からは受診の機会が増え、有意義な医療制度と言ってもいいのかも知れないが、結果的に負担増となるのでは手放しでは喜べない。  以前から光彦には不治の持病がある。COPD(慢性閉塞性肺疾患)、いわゆる肺気腫である。永年の喫煙の影響により、二酸化炭素を排出できず酸素を吸えないので、少しでも動けば発作的に呼吸困難を引き起こす。それも重度で呼吸不全状態となるという。  新型コロナの疫病戦争ではワクチンを欠かさず打ち、徹底した引き籠りで戦々恐々と過ごしたが、その間の運動不足も重なり、足腰も弱って立ち上がりがふらつき、まともに歩けない。  親しい仲間との飲み会では、解散後、普通なら自宅まで一時間で着く所、発作に襲われて駅に止まるごとに降車、ベンチで何回か休みながら、約3時間を要し終電になったこともある。以来、酒も楽しめなくなった。  壊れた肺胞は回復することはない。、在宅酸素が主となるが、その費用が高額なので医者が奨めても敬遠してきた。  そこで75才の誕生日を機に後期高齢者となり、医療費が1割になったので、在宅酸素を始めた。  しかし鼻チューブ(カニューラ)は煩わしい。こんなものを永く付けていれば鼻の穴が大きくなって団子鼻が獅子鼻になるばかりだ。室内の移動には長く伸びたチューブが体や家具に絡む。外出用の酸素ボンベはキャリーに乗せても足手まといになる。バッグを背負う方法も考えたが、持ち運びには重くて不便極まりなく、行動も制約される。  よってしばらくの間は夜間の就寝時のみの使用とした。だが、昼間、酸素なしで歩くのは辛い。移動時間を節約する意味で、外出には電動自転車を使用するが発作時に何度も止めて休む。駅はエレベータを探して使用。電車やバスの乗車には回りの客に遠慮しながら優先席に座る。  光彦は団塊世代に属する。同世代たちと同様、見た目は若い。白髪も顔のシワも少なく60代に見える。気持ちでは50代だと自分では思っている。認知症の気配もなく呼吸困難さえなければ元気な連中と変わらず、健常者が羨ましい。 「なんで俺なんだ」  悔しさから世の中を羨望し卑屈にならざるを得ない。 「自業自得なんだよ」  たまたま同県人の主治医が皮肉混じりにからかう。そう言われても仕方がない。白髪の主治医は60代で光彦より一回り若い。出身高校は違うが、同郷の縁で時には郷里の昔ばなしで冗談も交わす間柄だ。  70代後半ともなれば、いつ現世と決別しても不思議ではない。光彦の父親は33年前に82才で他界した。コロナ戦争の3年間で叔父と義理の兄弟3人の計4人が逝去した。緊急事態下の外出自粛では誰の葬儀にも参列できなかった。心ならずも見送れなかったが、彼らの冥福を祈りたい。 「いよいよ自分の番でもあるけど、あと十年は生き延びたい。未練かも知れないが、まだやり残したことがある」 「何をしたいのかね」  主治医が尋ねた。 「・・・女遊び。腹上死するかな」 「まだ元気なのかね」 「はい、おかげさまで現役ビンビンですよ」  看護師が密かに笑うのが見えた。                (2)  そこで光彦のご近所クリニック回りが始まった。既存の診療先も含めて、可能な限り行く。全く症状がないわけでもなく、ひやかしでもない。至って真面目である。  まず、泌尿器科ではバイアグラの処方を求めた。使用する特定の相手が居る訳ではない。別れた妻とは10年以上何もない。  ただ、コロナ前に一度だけデリヘルで遊んだことがあるが、その時、不覚にも完全な状態にならなかった。 「勃たないじゃないっ」  撃沈である。それなりに雰囲気づくりが必要だし、好きでもない相手と感情抜きでできる訳ではない。 「お父さん、バイアグラを使ったらどうですか」  若いデリヘル嬢にバカにされた。バイアグラの名前だけは知っていたが、光彦は自分がその対象になるとは思いもしなかった。もうデリヘルや風俗など二度と相手にしない。  泌尿器科クリニックでは、個人情報は秘守するとは言うが、やましい気はなくとも恥ずかしい。看護師にはまともに顔を合わせられない。 医師は職業柄、慣れているのか平然と言う。 「EDだね。80代で使っている人も居るよ」 「いや、万が一の備えですから」  理由にならないテレ隠しの受け答えである。バイアグラは全額自費だ。しまった、健康保険の1割負担は役に立たない。 『万が一』のために、保健所で無料の性病検査を受けることにした。梅毒が流行っていると言うので、念のため検査をしておこう。いや、性行為などしていないのだから感染している訳がない。今後のことも考えた予防的検査である。これも新型コロナの影響で感染症全般に神経質になっているのだろう。  マスコミが騒ぐ通りに混んでいるかと思ったが、予約は希望日に難なく取れた。普段は保健所など用事がないので、初めて訪れる施設なので始業前に着いた。  受付も問診も採血もすべて女性。彼女たちは市役所に属する地方公務員だが仕事量以上に人数が多いと拝見した。一人ひとりに懇切丁寧に応対しているのはいいのだが、なんとものんびりした業務の有様である。新型コロナ禍では人手不足で大騒ぎしていたはずだ。梅毒の大規模流行など信じられない。  問診で検査に来た趣旨を問われたので、「予防的」と答えた。  検査結果は一週間後である。  当日、恐る恐る結果を聞く。封筒を開けると結果を記した書面が入っている。  梅毒もHIVも『陰性』だった。  思い当たるフシがないので当然だが、無罪のお墨付きで安心した。帰りにコンドームをくれた。性病予防にはパートナーとのセックス時に必ず付けようと啓蒙し、マンガで説明したリーフレットを配布しているが、未成年にセックスを奨励しているようで、行き過ぎの感じがしないでもない。そう言えば高校でコンドームの使い方を指導していると言うニュースもあった。  今の時代、性交は公然と語られる。性欲に年齢制約はなく、避妊さえしていれば生殖と切り離されて快楽ゲームとなり、高齢化・低年齢化している。女性には性交後の妊娠を避けるアフターピルという方法もあるらしい。これらも女性の社会進出と軌を一にした少子化と無縁とは言えないだろう。  男と女とは所詮セックスに帰結するのだが、開放されたセックス観の風潮に基づき、浮気も不倫も公認される。一方、欲求不満者たちの倫理観の欠如により性犯罪の温床ともなって毎日のように不同意性交や性加害・DVの報道がなされる。  つまり少子化とは今日の性に関する傾向が根強く反映されており、政府の場当たり施策では解決しない。居酒屋からラブホテルへの直行は、快楽ゲームの必須コースだろう。  ならば後期高齢者も若い頃を思い出して頑張ろう。高齢者は今さら子どもを設けて育てる意思はない。残る余生が楽しく過ごせればいい。セックスフレンドの三人ぐらいは居てもいいと思う。性暴力から無防備のか弱き女性たちを守ってやりたい。  光彦には保健所の女性たちが誘っているように思えた。握手替わりにベッドを共にすればよい。不謹慎ながら確かに彼は妻と別れて以来、欲求不満が募っている。  次に耳鼻咽喉科を訪ねた。喉に違和感があり、唾液がねばりっこく味が判らないという症状がある。診察室では若い男性院長の背後に5名ぐらいの女性看護師が助手として取り巻いている。受付・医療事務にも女性が四名。オットセイのハーレム状態ではないか。イケメンの医師はモテるものだ。  いきなり喉にファイバースコープを装填された。モニターで自分の喉を見させながら、 「問題ないですよ。念のため唾液検査しておきます。様子を見ましょう」  同じ症状を掛かりつけの歯科医に相談する。20年来の付き合いとなる初老の医師だ。この歯科で部分入歯を作ったが噛み合わせが馴染まず何度も補修している。  大学病院の口腔外科への紹介状を書いてもらった。市には地域連携という形で患者の症例に適した紹介制度が定着している。難易度の高い疾病は高度医療が可能な大学病院が受け持つ。その際、地元医の紹介状が必要となる。  大学病院も予約で診察日を決める。診察と検査の結果、 「カンジダ菌が口腔内に繁殖している」 (カンジダ菌とは何だ? 悪い感染症か?)  舌の味蕾が消えているという。 「消毒剤を出しておきましょう」  処方箋を持って行き付けの調剤薬局に行く。  小柄でショートカットの似合う、馴染みの女性薬剤師は、 「カンジダ菌は誰でもどこでも居るわ」  だから心配ないとは言うが、何を食べても味覚がないのでは食べる楽しみがない。新型コロナの初期でも同じ味覚障害があったと言うではないか。キスをしても感染すると言うが、キスの相手など居る訳がない。感染症は嫌いだ。 (口は災いの元、万病の元だな)  以前から痔と診断されている。時々痒みと痛みが続くので肛門科を再診した。尻を見せるのは嫌だが、止むを得ずこの医師だけには見せざるを得ないと考えている。 「これは皮膚科に行けばいい」  なに、またも、たらい回しではないか。 (俺の尻が汚いので診察拒否か)  美人の女医が営んでいる皮膚科がある。美容皮膚科のスキンクリニックが女性に人気らしい。助手もスタッフもすべて女性である。  光彦のスケベ心が動いた。腕の一部に赤い湿疹が出た。陰嚢が粉を吹いている。こりゃ何だ。女性に尻も下半身も見せることはできない。 「診てみないと、何のために来院したのですか」  女医さんへの好奇心と言えば怒られるだろうか。  止む無く陰茎部分を手で隠してシブシブ陰嚢部だけを見せる。 女医が指で触れると細かい皮膚がこぼれる。 「初期の疥癬ですね。痒くても掻いてはダメですよ。塗り薬を出します」 「それと、湿疹は金属アレルギーかも知れません。精密検査をできる病院への紹介状を書きます」  また地域連携という名のたらい回しか。よく言えば医療機関の作業分担なのだけど、回される患者にとっては通院先の変更は好ましくない。政府はマイナ保険証で診療情報を共有したいらしいが、プライバシー保護の観点からは賛成できない。  処方箋を持っていつもの調剤薬局に行く。調剤薬局は一ケ所に決めている。薬剤師も患者ごとに担当を決めているので、何かと相談に乗ってくれる。優しく丁寧な女性なので誘ってみた。 「次から次で、もう疲れたよ。食事に行きませんか」 「仕事ですから」  当然ながら断られた。  これだけ様々な症状が続くとノイローゼにもなる。ついに精神科を受診することとした。 (後編につづく)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加