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胡桃が夜道を歩いているとカツカツと変な音がした。立ち止まって後ろを振り向くとそこには誰もいなかった。また歩き始めるとカツカツと音がした。
気味が悪いと思った胡桃は振り返ることなく、坂上のアパートに逃げ出した。ドアを開けるとやっと胡桃は安心することができた。
胡桃は知る由もなかったが、電柱の後ろから黒い影が坂上のアパートを覗き込んでいた。
セーラー服からTシャツに着替え、胡桃は坂上のアパートで宿題を解いていた。坂上はキッチンで料理をしている。包丁を使ってキャベツを刻む音がした。
このままここにいてもいいのだろうか。胡桃は野口のことを思い出した。坂上のことが好きな野口に一緒に住んでいることがバレたら、どうなるのだろうか。梓のように殺される。最悪の展開が頭を過った。
けれども、他に行くあてなどない。胡桃は先のことを考えるのが嫌になった。今の幸せにしがみつきたかった。
宿題を終えた胡桃はキッチンの方へ足を伸ばした。
「手伝いますよ」
「胡桃さんはテレビでも見ててよ」
「申し訳ないなあって。いつも先生に料理をつくってもらってばっかで」
「ありがとう。胡桃さんは他の娘と違って優しいね」
胡桃は坂上に代わってキャベツを刻み始めた。
テーブルには豚の生姜焼き、ご飯、みそ汁が並ぶ。二人には向かい合って、夕食を食べた。
「胡桃さん、そろそろ家出の理由を聞いてもいいかな」
坂上が重たい表情で切り出した。
「お母さんとケンカして」
「なんで? それが一番聞きたい」
「お父さんと離婚してから、お母さんがおかしくなったんです。変な人と付き合うようになって」
「変な人?」
「その人が嫌らしい目で見てくるんです。それが怖くて」
ここまで話すのが精一杯だった。
「話してくれてありがとう。ほとぼりが冷めるまでここにいたらいいよ」
「ありがとうございます」
ふと胡桃は誰かに見られているような気がした。坂上の他に誰もいないはずなのに。テレビの方へ視線を向けると坂上と恋人が映る写真があった。
教え子と暮らしていることを知ったら、彼女はどう思うのだろう。疚しいことなどないが、彼女が誤解するかもしれない。胡桃は胸の痛みを覚えた。
「彼女さんって、ここに来ないんですか? わたしがいたら、あれかなあって」
「もう随分とここに来てないなあ。胡桃さんはそんなこと気にしなくていいよ。彼女だって分かってくれるよ」
胡桃は坂上の言うことを信じることにした。
坂上がお風呂場でシャワーを浴びている。胡桃は洗面台で歯を磨こうとしていた。ハブラシの上に歯磨き粉をつけようとしたが、中身がなかなか出てこなかった。
胡桃は洗面台の小さな引き出しを開けた。その中にコップが入っていて、青のハブラシとピンク色のハブラシがあった。青のハブラシは坂上が使っていたものだった。ピンク色のハブラシは使用感があり、歯磨き粉の白い塊がくっついていた。
もちろん、ピンク色のハブラシは胡桃のものではない。坂上の恋人のものだと思ったが、坂上曰く随分と来ていないらしい。
胡桃は見てはいけないものを見たような気がして、そっと引き出しを閉めた。
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