第一章 波紋

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 『人間ごっこ』が発売されてから、三ヶ月ほどが経った。  コンビニバイトから抜けられると思ったが、売り上げは芳しくない。いつものように須藤くんに軽口を叩かれている。 「最近、元気ないっすよね。なんかあったんすっか?」 「うーん。体調が悪いんだ」  この頃、気分が悪い。ただ体を動かすことさえ億劫になる。病院に行った方がいいのかもしれない。  レジに立ちながら、頭を搔きむしるとサラサラと毛が落ちていく。自然と毛が抜けたにしては量が多かった。何かストレスを抱えているのだろうか。  アパートに戻り、三作目を書こうとしているが、『人間ごっこ』を超えるアイディアが思い浮かばず、僕は辻田さんが毎度くれるスムージーを飲んだ。ベリー系の酸味が程よく、頭が冴えるような気がした。  パソコンを立ち上げるとひなまつりからいつもより長いDMが届いた。  草ヶ谷先生、面白かったです。先生もナオちゃんのこと知っていたんですね。嬉しいです。もう二回も読みました。  以下、長文をお許しください。  そんな態度だから、友達ができないんだ。お前みたいな奴に恋人ができるわけがない。勉強ができないとロクな人間にならないぞ。  わたしをまともな人間にさせようと周囲の大人たちが呪いの言葉を吐きました。人間たちに認められたかったわたしは自分を曲げてでも人間たちの言いつけを守りました。  けれども、その努力は実を結びなかったのです。友達も恋人もできないし、学校の成績も上がりませんでした。そのせいで、わたしは人間たちから馬鹿にされました。  どうしたら、まともな人間になれるのか。わたしはずっと考え続けてきました。けれども、答えは出ませんでした。  そんな折、先生の『人間ごっこ』を読みました。目から鱗が落ちるような読書体験でした。わたしもナオちゃんと同じように人間のフリをしようともがいていたのです。  警察に逮捕されたナオちゃんが「人間のフリをするのに疲れた」と言ったとき、わたしは肩の荷が降りるような感じがしました。人間になることを諦めれば、楽になれる気がしたのです。  わたしもナオちゃんのようになりたい。人間の殻を突き破って自由になる。わたしは覚悟を決めることができました。  先生にはとても感謝しています。わたしのように人間のフリをして苦しんでいる人々のためになる作品を書いてください。  陰ながら応援しています。  生きづらさの表明にも見えるが、「ナオちゃんのようになりたい」と何の躊躇いもなく書かれるとどこか引っかかるところがある。  それに、この文章にある「覚悟」とはどういう意味なのか。沢村のような凶行に打って出るという意味なのか、それとも生きる勇気が湧いたという意味なのか。もちろん後者であることを願いたい。  胸騒ぎがして、気分が悪くなった。胃腸がズキズキと痛む。何も起こらない。何も起こらない。自分に言い聞かせるが、かえって不安が増すばかりだった。  僕はお腹の不快感を抱えながらも、カラカラ亭に向かった。誰かに話さないと心が持たない気がした。  辻田さんは僕の顔を見るなり、手を振ってくれた。 「読みましたよ。前回の作品より面白かったです。流石、小説家って感じですね」 「ありがとうございます」 「どうしたんですか? 浮かない顔をして」  僕はお腹を擦りながら、事情を説明して、例のDMを見せた。 「危険な予感がしませんか?」 「考え過ぎですよ。若い頃って、病むじゃないですか? そういうものだと思いますよ」 「それにしても、覚悟とか言いますか? 犯行声明っぽいような気も」 「大丈夫ですって」  どうしても素直に辻田さんが言うことを飲み込むことができなかった。 「そう思いたいんですが」 「ほら、唐揚げとスムージーを飲んで元気を出してください。三作目も読ませてくださいね」  重い足取りでアパートに戻った。酒を飲んでいるわけでもないのに、足がフラフラする。先ほどよりも増して、胃腸の不快感がする。お腹の中で寄生虫が蠢いているようだった。  慌ててトイレに向かい、僕は右手の人差し指と中指を喉の奥に突っ込んで便器に黄色の異物を吐き出した。鼻を刺すような臭いのせいで、さらに吐いた。  ひなまつりに返事を書こうと思ったが、それどころではなかった。ベッドに横たわると全身から力が抜け、虚脱感に襲われた。
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