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もう帰っていると思いたかったが、玄関には尖った黒い靴があった。
「胡桃ちゃん、お帰り」
小田嶋は白い歯を出して笑っていた。
「帰ってください」
胡桃が隣の部屋に逃げようとすると小田嶋は襖の前に立った。
「避けられていると思うとさ、ますますワクワクするよね」
「お母さんは?」
「そんなに怖い顔しないで。コンビニでお酒を買っているところなんだから」
小田嶋は一歩ずつ胡桃に近づいた。
「来ないで!」
「そんな目で見ないで。オレ、胡桃ちゃんのことが好きなんだ。最初はママのことが好きだったけど、ドンドン胡桃ちゃんが可愛く見えて」
胡桃の耳元で小田嶋が囁く。熱気のこもった吐息が耳に侵入してくる。まるで耳が壊されたような気分だった。
小田嶋はさらに迫ってきた。手が蛇のように後ろ髪にまとわりつく。
「サラサラしたきれいな髪だね。そうだ。そうだ。あのシュシュはどうしたの? 胡桃ちゃんに似合うって言ったよね?」
胡桃は震えながら頭を振った。
「失くしたの? 酷いなあ。まあ、可愛いから許してあげるよ」
後ろ髪に触れていた手が皮膚に到達する。うなじにヌメヌメした魚を押し当てられているような感覚だった。
「胡桃ちゃんって彼氏いるの?」
胡桃は凍りついたように動けなくなった。
「女子校だからいないか。誰にも汚されていないってことだよね?」
小田嶋は後ろ髪を束ねてポニーテールをつくると口をうなじに近づけた。口の先端からカメレオンのような赤い舌が伸びる。
誰か助けて。その文字だけが脳の中のスクリーンに映し出される。体は強張って全く動かなかった。
唾液で汚れた舌がうなじを濡らす。胡桃は肩を後ろに突き出して身を守るほかなかった。
「昔さあ、好きだった女の子もきれいなうなじをしててさ」
助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。
寸でのところで鍵が回る音がした。小田嶋は後ろ髪を離し、冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。
「ノリちゃん、お帰り」
「来てたの?」
「そりゃ、ノリちゃんに会いたかったから」
小田嶋は母親を強く抱きしめた。母親は女らしくうっとりしている。小田嶋は母親に見えないところで胡桃に向かって舌を出した。
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