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胡桃はバイト先である浜辺屋の暖簾をくぐった。店主の浜辺は大きな寸胴鍋の前に立ち、準備をしていた。
「こんなときに来てくれてありがとね」
梓の事件は全国ニュースでも取り上げられている。胡桃は浜辺が気遣ってくれていることを理解した。
「いえいえ。別に大丈夫です」
胡桃は無理に笑ってみせた。
アパートにいても学校にいても、落ち着かない。むしろ、バイトで汗を流した方が余計なことを考えずに済んだ。
いつもより客足は少なかったが、胡桃は気を抜くことなく、客を案内し注文を取った。
ラストオーダー二十分前のことだった。店のドアが開き、胡桃は反射的に「いらっしゃいませ。何名でお越しですか?」と口を動かした。
「一名で」
聞き覚えのある声だった。胡桃は思わず俯いて顔を隠そうとした。
「胡桃さん」
坂上は呆気に取られたようにその場に立っている。
「なんでこんなところに」
「カウンター席にどうぞ」
胡桃はあくまでも店員として応対した。坂上は胡桃を見つめながら、カウンター席に座った。
大学生二人組とスーツ姿のサラリーマン一人がいなくなり、店に残る客は坂上だけとなった。
「胡桃さんだよね?」
坂上は信じられないという面持ちで確認するように尋ねた。胡桃は軽く頷くだけだった。
「先生こそどうして?」
「久々に行きたくなって。まさか胡桃さんに会うとは思わなかった」
「学校の方には言わないでください」
胡桃は頭を下げて坂上に頼んだ。
「何か深い事情があるんだね。分かった。誰にも言わないよ」
「ありがとうございます」
「一つだけ謎が解けたよ。夜遅くまでバイトをしているから、胡桃さんは授業中眠そうだったんだね」
胡桃が謝ると浜辺が厨房からカウンターの方に顔を出した。
「私の方こそすみません。胡桃ちゃんをこんな時間まで働かせて」
浜辺が謝ると坂上は気まずそうに頭を下げた。
「一応、校則でアルバイトを禁止しているんです。ですが、胡桃さんには特別な事情があるのだと思います。せめてテスト期間はなるべくシフトを入れないようにしてください」
「分かりました」
バイトを続けることができて良かった。胡桃は安堵しながら、坂上の隣に座った。即座に浜辺が胡桃の分のラーメンも準備した。
「なんでバイトをしているのか聞かないんですか?」
「無理に尋ねるものじゃないと思って。胡桃さんが言いたかったら、言ってもいいよ」
「ちょっとわけがあって」
胡桃は言葉を濁した。
「なんかあったら、連絡して」
坂上は電話番号が書いてある名刺を胡桃に渡した。
「流石に深夜とか早朝はやめてね」
胡桃は坂上から勇気をもらった。自分は一人ではないという安心感ほど心強いものはなかった。
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