第二章 模倣

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 胡桃がバイトから帰ってくると母親はあからさまに嫌そうな顔をした。小田嶋は背を低くし、縋るような目で胡桃を待ち構えていた。 「胡桃ちゃん、助けてよ」  小田嶋がピーピー喚いている。胡桃は何が起こったのか分からなかった。 「ねえ、胡桃。こないだ、ママが帰ってくるの遅い日があったの覚えてる?」  胡桃はあの日を指していることを理解して小さく頷いた。母親が二人の仲を疑っている。胡桃は母親を哀れな人だと思った。 「そのとき、悟くんと何してたの?」  小田嶋は胡桃が口を開く前にベラベラと話し始めた。 「一緒にテレビ見たよね。あと良くないけどさ、お酒も飲んだでしょ。胡桃ちゃんってノリちゃんと同じで酒に強いんだよ」 「悟くんに聞いてるんじゃないの。胡桃、正直に答えて!」  あの悍ましい出来事を口にするだけで心臓が破裂しそうだった。 「あの日、」 「胡桃ちゃん、一緒にチューハイ飲んだよね」  小田嶋が茶々を入れる。 「蹴られた」  胡桃は震えながら捻り出すように声を出した。それ以上の告発をすることなどできなかった。 「蹴られた? 胡桃ちゃん、そんなことオレがするわけないじゃん。だって、大好きなノリちゃんの娘さんなんだから」 「悟くんがそんな怖いことするわけないでしょ」  胡桃が「蹴られた」と言ったところで母親にその真意は伝わらなかった。 「本当だよ。背中を蹴られたの」 「ふざけたこと言わないで!」  母親は飲みかけの缶を床に叩きつけ、胡桃の髪を掴むと寝室の方へ押しやった。胡桃はネズミの人形を握りながら、その場が丸く収まることを願った。  堂々巡りを繰り返しながらも、母親は小田嶋を問い詰めた。 「ねえ、悟くんは胡桃のことどう思うの?」 「どうって?」 「胡桃のこと、女として見てるのかってこと?」 「そういうんじゃないよ。ノリちゃんと似て可愛いなあって。そうだ。妹みたいな感じだよ」 「わたしと胡桃だったら、どっちが可愛い?」 「ノリちゃんに決まってるじゃん」 「本当なの? 悟くん、胡桃が帰ってくると嬉しそうにするよね? わたしといるときよりも楽しそう」 「勘違いだって」 「わたし分かるの。男の人がわたしに興味を失くしたり、他の女に目移りしたりするときどんな目をするのか。なんで男の人ってわたしだけを見てくれないの?」 「落ち着いて」 「やっぱり、そうだよね。若い方がいいよね。パパもそうだったしね。そういうもんだよね」  聞くに堪えないケンカだった。胡桃は坂上がくれた名刺を思い出した。いざというときは坂上が助けてくれる。胡桃は覚悟を決めて、襖を開けた。 「全部、胡桃のせいだから。胡桃が悟くんを誘惑したせいだからね」  母親は鬼のような形相で涙を流していた。 「そんなことしてない」  胡桃はきっぱりと言い切った。 「胡桃のせいだから。もう出てってよ。パパも胡桃には優しかったよね。娘だからなのかな。それだけなのかな」 「もう出て行くから。パパのとこに行くから」 「行きたきゃ行けば。あんたみたいなのがいるから、ママは幸せになれないんだよ。もうどっか行って! こうなるんだったら、産まなきゃ良かった」  胡桃は荷物をまとめて家を出る準備をした。
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