32人が本棚に入れています
本棚に追加
車のバックミラー越しに心配そうな面持ちをした坂上の顔が映る。車内に無駄な荷物などなく、後部座席はすっきりしていた。
「あそこって、胡桃さんの秘密基地なの?」
「中学生のとき萌香と一緒に遊んでいた場所なんです」
「秘密基地って男の子っぽいよね」
そこで話が中断され、胡桃は気まずくならないように窓の外から街並みを見ていた。胡桃は自分の住んでいるアパートから離れていくことを喜んだ。
満を持したように坂上はやっと口を開いた。
「家で何かあったのかい? 嫌なら別に何も言わなくていいよ。僕も家出したことあるし」
「お母さんとケンカして」
「なんでケンカしたの? いや別に責めてるわけじゃないんだ。言える範囲でいいから」
「些細なことで」
些細なことではないが、踏み込んだことを言う勇気などなかった。
「そういうこともあるよね」
それ以上、坂上は追及しようとはしなかった。
「高校生のときに父親とケンカして家を出たな。ほんと酷い親だったよ」
「先生もなんですか?」
「酒癖が悪い父親でね。いつもは大人しいのに、酒を飲むと手をつけられなくて」
同じことで悩んだ者同士として胡桃は坂上に対して親近感を持った。
それほど築年数が経っていないアパートの前で坂上は車を停めた。胡桃は坂上の後ろについていった。
「どうぞ」
坂上がドアを開けると胡桃は尻込みした。
「いいんですか?」
教師とはいえ、男性と二人でいるのは怖かった。
「いいよ」
胡桃はゆっくりと坂上の部屋の中へ入っていった。
キッチンが備えつけてある廊下を抜けると八畳ほどの生活スペースがあった。
「ごめんね。何もないけど」
坂上は白を基調としたカーペットの上に黄色のクッションを置いた。胡桃はそれに座ると部屋中を見渡した。部屋の本棚には高校の教材や線形代数と記された難しそうな本が置いてあった。
ふと胡桃はテレビのそばにある写真に目が行った。
「先生、付き合っている人がいるんですか?」
二人そろってミッキーマウスを連想させる耳飾りをつけている。坂上が子供らしく笑っている。坂上のそばにいる女性は背が小さく花柄のワンピースを着ていた。
「まあね。このことは誰にも言わないでね」
「言いませんよ。クラスの子たちがショックで倒れると悪いから」
「胡桃さんって、そういう冗談を言うんだね」
写真に映る恋人の屈託のない笑顔が胡桃を安心させた。男といっても、みんな小田嶋のような化物ではない。
時計は夜の十一時半を指している。胡桃は坂上が冷蔵庫から取り出した麦茶を飲みながら、できる限り時計に目を向けないように心掛けた。
「先生とその彼女さんはいつ出会ったんですか?」
「大学のときだよ」
「じゃあ、先生と同じ数学科だったんですか?」
「まあね」
坂上の恋人に興味があるわけではなかった。ただ質問攻めにしないと家に帰るように促されるか、家族の事情について突っ込んだところまで尋ねられるような予感がした。
「胡桃さん、そろそろ」
坂上は会話を終わらせるようにカーペットから立ち上がった。
「もう少しお願いします」
「流石にこれ以上は。僕も胡桃さんも学校があるんだから。送っていくよ」
車のキーを出して坂上は廊下の方へ歩き出した。
「お願いです。もうあんな家に帰りたくないんです」
胡桃は坂上の腕を掴んだ。
「分かった。落ち着こう。今日は僕の家にいてもいいよ」
坂上はキーを財布に戻した。
なんだか自分の存在を許されているような気がした。胡桃はやっと自分の居場所を見つけることができた。
最初のコメントを投稿しよう!