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胡桃は自分のアパートに帰ることなく、坂上のアパートから学校に通ったり、バイトに行ったりすることになった。
坂上は家事全般を行い、胡桃のために夕食をつくってくれた。胡桃はこれこそ普通の生活なのだと思った。
小田嶋のようなケダモノも母親もいない生活。次第に胡桃の顔に生気が戻った。ラーメン屋の浜辺に「いいことでもあったの?」と聞かれたことを思い出す。それくらい他人から見ても、胡桃の表情は明るくなっていた。
数学の授業中、何度か坂上と目が合うような気がした。一緒に過ごしているせいか、かえって胡桃はどこか甘酸っぱく恥ずかしい気分になった。
まだ恋と名付けるには何かが足りない。胡桃にとって坂上は恋人というよりは父親の代わりに近い存在だった。
野口を含めクラスの大半が坂上のことを好きになるのも分からなくはなかった。ただ顔が整っているだけではないことを胡桃は他のクラスメイトよりも知っている。
昼休みになって胡桃はリュックから弁当箱を取り出した。
「コンビニじゃないの?」
萌香が目を丸くしている。
「お母さんがつくってくれるようになったの」
「お母さんの体調、良くなったんだね」
礼愛も嬉しそうにしていた。
胡桃は噓をついた。坂上がつくってくれたなど誰にも言えない。ましてや坂上と一緒に暮らしていることなど口が裂けても言えない。胡桃にとって甘美な秘密だった。
「最近の胡桃、楽しそうだよね? 彼氏でもできたの?」
萌香がからかってきた。
「別に。何もないよ」
胡桃はまた一つ噓を重ねた。
放課後になり、図書委員の仕事を終えて、胡桃が教室に戻ると野口から声をかけられた。梓の事件以降、胡桃は野口を恐れていた。
「ごめん。忙しいんだけど」
胡桃は野口を振り切って美術室に行こうとしたが、野口は教室の引き戸の前に立っている。
嫌な予感がした。もしかしたら、坂上とのことが知られているのかもしれない。胡桃は探りを入れるために、野口の話を聞くことにした。
「あのー、恥ずかしいことなんだけど」
野口はなかなか本題を話そうとしなかった。
「どうしたの?」
野口は紫のリュックから小さい袋を取り出した。その中には白と茶色が混ざったような色をしたクッキーが入っていた。
「わたしねえ、えっと好きな人がいて、その人に贈り物をしたいなあって」
野口の頬が赤らんでいる。どこか嬉しそうだった。
胡桃は坂上とのことがバレていないことを知って安心した。
「だから、そのー、その好きな人に渡す前に誰かに食べてもらいたくて」
梓は毒が入ったペットボトルを飲んだ。もしかしたら、クッキーに毒が入っているかもしれない。
「好きな人って誰?」
胡桃は坂上かどうかを確かめたかった。
「胡桃さん、口が堅い方?」
「堅いよ」
「坂上先生なんだ。お願い、坂上先生にまずいの食べさせたくないから」
「ごめん。わたし、クッキー好きじゃないの。ごめんね」
「胡桃さん以外に頼れなくて。家族には言いたくないし。萌香さんはわたしのこと嫌っているし」
次はわたしたちが狙われる。萌香が葬式のときに言っていたことを思い出す。
「お願い!」
野口はクッキーが入った袋を胡桃に差し出した。
「他の人に頼んでよ!」
胡桃は野口を振り切って廊下に出た。
「胡桃さん、もしかしてわたしのこと疑ってるの? わたしじゃないから。わたし、そんな酷いことしないから」
野口は袋からクッキーを取り出してボリボリ食べた。茶色の粉末が廊下にひらひらと落ちた。
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