第二章 模倣

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 相変わらず、梓の事件は進展しなかった。何者かがペットボトルの中に毒を入れたことまでは分かっているが、犯人は未だに捕まっていない。  クラスの大半が梓のことなど忘れて、どうでもいい世間話をしている。誰しも自分が殺されるかもしれないとは思いたくないものだ。  中には探偵ごっこの延長で犯人捜しをする生徒もいたが、彼女たちは野口が怪しいと結論づけた。とはいえ、確実な証拠があるわけでもなく、もとから野口が仲間外れにされていただけだった。  胡桃は坂上がつくってくれた弁当に箸を伸ばし、物思いに耽っていた。坂上との同棲がバレて野口に殺されるかもしれない。バレなかったとしても、坂上のアパートに入り浸るのも良くない。とはいえ、他に居場所などなかった。  振り子のように胡桃の考えは揺れ動いた。 「どうしたの? 元気ないよ。前はあんなに元気だったのに」  礼愛が胡桃の表情を伺う。 「大丈夫? 何もないようには見えないけど」  礼愛の気遣いは嬉しかったが、悩みを打ち明ける過程で今までの経緯を説明するのが嫌だった。  萌香が「ちょっといい」と胡桃に話しかけ、二人は教室にあるベランダの方へ行った。  引き戸を閉め、萌香は口を胡桃の方に近づけた。 「バイトが大変なの?」  誰にも聞こえないように萌香は小さな声で尋ねた。 「最近、増えちゃって」  胡桃は萌香を心配させないように嘘をついた。実際のところ、シフトは増えていなかった。 「なんかあったら、いつでも言ってよ。友達なんだから」 「ありがとう。本当に何もないから」  ベランダから教室に戻ってきたとき、野口と目が合った。恐怖を覚え、胡桃はすぐに俯いた。授業が始まっても、野口は胡桃に標準を合わせていた。  放課後になっても、胡桃、萌香、礼愛の三人は教室でどうでもいい話をしていた。事件があってから、萌香は美術室に行かないようになった。それに合わせて、胡桃も美術室に行かなかった。 「早く捕まってくれないかな。怖いんだよね」  萌香は何度も「捕まって欲しい」と言い続けた。 「今日、野口さんにずっと見られてた気がする。今度はわたしなのかな」 「不安になる気持ちは分かるよ。でも、いくら野口さんでもそんなことしないって」  礼愛が宥めても、胡桃の不安は収まらなかった。  誰もいない廊下から誰かが歩いてくる音がした。胡桃は直感的に野口であることを悟った。 「胡桃さん、お話しがあるの?」  野口はニタっと大きく口を開いた。 「胡桃は別にあんたと話すことないから」  胡桃が何かを言い出す前に萌香が冷たく言い放った。 「胡桃さーん、分かるよねえ?」  野口は意味ありげに語尾を伸ばした。坂上のことだ。二人には聞かれたくない。 「二人とも先に帰って、野口さんと大事な話があるの」 「胡桃、あんなのと二人っきりは流石にヤバイって」 「大丈夫だから」  胡桃は萌香の制止を振り切って、野口についていった。萌香と礼愛はその場に残った。  美術室は静寂に包まれていた。嫌な予感がして胡桃は後ろに下がろうとしたが、野口が平べったいイスに座るように目を向けた。胡桃が座っても、野口は座ろうとせず、威圧するように立っていた。 「胡桃さん、なんの話だか分かる?」 「分からないよ」  胡桃は膝頭に手を置いてスカートを掴んだまま頭を振った。自分の口から坂上の名前を出したくなかった。 「そんなことないでしょ」  野口が胡桃のもとに詰め寄った。長い髪が胡桃の手の甲に当たる。 「知ってるんだ。胡桃さんの秘密」 「だからなんのこと? わたしに秘密なんかないよ」 「いいよ、いい人ぶらなくて。胡桃さんってそういうとこあるんだね。びっくりした」 「何度も言わせないで! わたしは何もないから」  胡桃はイスから立ち上がって声を荒げた。 「坂上先生とお付き合いしてるんでしょ。ねえ、なんで隠してたの?」 「付き合ってなんかない。誤解だよ」 「胡桃さんが先生のアパートから出てくるところを見たんだ。ちゃんとこの目で」  野口は目を光らせた。 「テキトーなこと言わないで!」 「耳が真っ赤だよ。嘘ついてますって、顔に書いてあるようなもんだよ。これが証拠」  野口はセーラー服のポケットから携帯を取り出して写真を見せた。そこにはセーラー服姿で坂上のアパートに帰宅する胡桃の横顔が映っていた。 「見て見て。このセーラー服ってうちのだし、胡桃さんでしょ。こういうことするんだったら、もっと賢くしないとさあ。どう? 坂上先生との暮らしは? いいな。胡桃さんと入れ替わりたいなあ」 「家庭の事情があって。家に帰れないの」  野口は胡桃の言葉に耳を貸さなかった。 「なにそれ? この期に及んで変な言い訳しないでよ。ねえ、坂上先生と何したの? キスしたの? もしかして、あんなことも」  妄想に浸っているのか、野口は頬を赤らめた。 「してないから。先生とわたしはそんな仲じゃないから」 「そんなの誰が信じるの? 坂上先生は顔立ちがはっきりしている人がタイプなんだなあ」 「誰にも言わないで」  胡桃は泣きそうになりながらも、口元に人差し指を置いた。 「じゃあ、認めるってことだね。うーん。どうしようかな。これを坂上先生に届けてくれたら、みんなに言わないであげる」  野口はピンク色の封筒を胡桃に差し出した。胡桃はしぶしぶ受け取った。 「中身は見ないでね。見ていいのは坂上先生だけだから。あと、わたしの名前を出さないでね。わたしの名前を出したら、坂上先生がガッカリしちゃうから。胡桃さんが書いたラブレターってことにして。わたしは読んでもらえるだけでいいから」  胡桃がもじもじしていると野口はさらにクッキーを渡した。 「これもお願い。胡桃さんがつくったって言ったら、坂上先生、食べてくれると思うから。毒なんか入ってないから」 「なんでそこまでしないといけないの?」 「逆らうつもり? ほんとにみんなに言っちゃうよ」  ドスの利いた声を浴びせると野口はスタスタと美術室から出ていった。  クラスのみんなにバレたらどうしよう。胡桃は野口に従うしかなかった。
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