灯された火はいつの日にか

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 一昨日、70歳を超えた私たち老夫婦はニューヨークにあるライブハウスへと足を運んでおりました。そこは決して大きな会場ではございません。別に世界的に有名なバーでもございません。  私たちの目当ては一人の女性ピアニスト、実の娘でありました。    娘はニューヨークの名門音楽大学を卒業した後、地道に演奏活動を続け、40歳を目前にして初のリーダーライブを実現させたのであります。  それまでたくさんの方々と交流をしてきたのでしょう。まだまだ無名であるはずの彼女のライブには、満員のお客さんが足を運んでおりました。  やがて大きな拍手や指笛と共に現れた娘は、少しハニカミながら英語で軽く挨拶をした後にピアノを弾き始めるのでした。  主人と私はカウンター席からウィスキー・ソーダを片手にその様子を見守っておりました。指でトントンとリズムを取る主人の姿は、あの時2人で話したバーでの時間を私に思い出させました。  娘にも選択の時は来ました。主人は「自分で決めり」とだけ言って全てを彼女に(ゆだ)ねました。  娘は演奏することを選択しました。時には大きな困難がたちはだかりましたが、演奏するという小さな喜びを積み重ね、それを幸せへと昇華させていきました。 ——あなたは今何を考えていますか?   私は主人の横顔をじっと見つめながら頭の中で問いかけました。  娘の選択を聞くと「悪い夢は俺が食っちまうけん。獏みたいにな」そう言って笑いながら仕事へと向かったあなたのお顔を、昨日のことのように私は覚えております。もう10年以上も前のことなのに。 「熱いね」  グラス一杯に入った氷が解けてカランと鳴った音に紛れて小さく呟いた主人の言葉を私は聞き逃しませんでした。  主人も——バクもまたあの日から〝熱〟を帯びて日々を暮らしてきたのです。ホノカが自ら選択した〝熱〟が冷めないよう新たな火を灯して。  炭酸とその泡で少し濁っていたウィスキー・ソーダは解けた氷によって薄められ、いつの間にか透き通った液体へと変化しておりました。  心なしか娘のステージはこのウィスキー・ソーダのように晴れやかに見えた気がいたしました。日本のお店以上に喫煙者の方が多くて煙が立ち込めておりましたのに。  時間が経つのはとても早いですね。いつの間にか飛行機は日本の上空へとたどり着いたようでございます。  歳を取るとお話が長くなってしまって、こうして多くの方々にご迷惑をおかけしてしまい、時折自分に嫌気がさしてきます。  しかし皆さんの心のどこかに留めておいて欲しいのです。その選択はあなたの望んだものなのかと。  最後にもう一度皆さんに問いかけてこの長話を終わりとさせていただきましょう。 ——皆さんは『選択』というものをしたことはありますか? 
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