灯された火はいつの日にか

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 バクは大学を卒業するとすぐに渡米しました。彼が向かったのは、ニューヨークにあるアメリカの名門音楽大学でございました。  バクは小さい頃からジャズピアノを学んでおりました。当時の彼のジャズに対する情熱は凄まじかったそうです。それを抑えきれなくなったバクは、本場アメリカで研鑽(けんさん)を積むため、両親に頼み込んで入学させてもらったのでした。  バクは夏休みを取ることなく毎セメスター授業を受けておりましたので、2年半ほどで音大を卒業するに至りました。  それまでの学生ビザがOPTビザというものに切り替わりまして、1年間のアメリカ滞在を許されました。  OPTビザ取得者たちは、この期間に専攻と同じ分野の職種に就いて企業研修を行います。この研修を経て企業に認められれば労働ビザを取得し、晴れてアメリカで暮らすことを許されるのでございます。  バクのようにミュージシャンを志す者はO–1Bビザ、いわゆるアーティストビザの取得を目指すことになります。  バクはジャズピアノ科を専攻しておりましたので、基本的にはフリーランス、しかしながらアメリカ国内の企業やエージェントからのスポンサーが必要となります。  これを探すことが最難関でございまして、多くの若人たちがアメリカでの音楽活動を諦める大きな要因となるのでありました。  バクは運良く協力してくださるスポンサーを見つけ、3年間のアーティストビザを取得することに成功いたしました。  それからというもの、バクは様々な場でピアノを演奏しておりました。彼曰く、アメリカでは日本よりも演奏する場が多いそうです。そのため、探そうと思えば場所はいくらでも見つけられるとのことでございました。  土日には教会で伴奏をし、平日は街中に出てホテルやカフェ、夜にはバーでBGMとして演奏していたそうです。当時住んでいた地域の小さなバレエ教室での伴奏もしていたようでした。  また、結婚式やパーティーでも演奏していたそうです。そのカクテルタイムでは、ピアニストのみが演奏するそうで、その分ギャラが加算されるのだ、というようなことも話していたような気がします。  一見すると私のような素人は、バクは音楽で生計を立てることができていたように思えます。けれども彼の中では常にすり合わせの連続だったそうです。  初めは自分が思い描いていたような、ブルーノートやジャズ・アット・リンカーン・センターといった有名な会場でスターの如く演奏する姿とのギャップに苦しんだそうです。  しかし、二十歳(はたち)を超えて精神的に落ち着いていた彼は、程なくしてその現実を受け入れたそうです。もちろん、機会というものはいつでも掴めるように(うかが)っていたそうですが。  月日が経つにつれてジャズピアノを音大で学んだことは自分にとって本当に意味のあるものだったのだろうか? という疑問が彼の綺麗に手入れされた指に重くのしかかってきたそうです。  教会やバレエ教室で演奏するのはクラシック音楽がほとんどだったそうです。  ホテルでのBGM演奏ではヒーリングミュージックやジャズを中心に演奏していたようです。しかしながら醍醐味である即興演奏はほどほどにと言われていたそうです。オーナーたちからは当たり障りのないように、お客様の邪魔にならないように演奏することを求められていたようなのです。  パーティーでの演奏は当時のヒット曲や定番曲といったポップスが中心で、そこでもやはり個性を出さぬように意識していたそうです。そしてその場にいる方々が踊りたくなるような音楽に終始したそうです。  楽譜を正確に読めるので重宝されているし、それで生活ができている。とても素晴らしいことのようでありますが、バクにとっては「譜面は前から読めたし、それならばわざわざ音大に行く必要がなかったのではないか」というじめじめとした不信が、頭にこびり付いて離れなくなってしまったそうでうす。  彼が渡米した頃に求めた、スリリングな本場のジャズとはいつしか無縁の生活となってしまいました。胸に灯された炎には水をかけられ、そのまま錆びていったそうです。
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