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ホノカが修学旅行のために東京へと発って2日目の夜でございました。バクは妻を「たまには」と言って、大名にございますジャズバーへと連れて行きました。その日はトランペットを演奏する青年をリーダーとしたカルテットが演奏しておりました。
妻は少し驚いておりました。なぜならバクは長いことこうしたバーへ行くことはなかったのでございますから。
「ハイボールください」
「それじゃあ私も」
バクと妻は店員にそう伝えますと程なくしてカウンターに注文したハイボールが置かれました。2人はグラスを持って「乾杯」と一言、軽くコツンとぶつけてそのまま一口ハイボールを味わいました。
キンと冷えた液体は喉元を過ぎると体の中に清涼感が広がっていきます。身体の隅々に満遍なく刺激を与えた後、全身へと溶け込んでいきます。やがてその感覚は嘘だったかのように消えていきます。そして一瞬冷やされた体温が何事もなかったかのように元に戻っていくのです。
「あの子、若いですね」
バクは唐突にグラスをタオルで拭いているマスターに声をかけました。
「えぇ、まだ27歳なんですよ。この間、アメリカから帰ってきてうちでバイトしながらああやって演奏しとるとです」
マスターはグラスを置くと真っ白な頭を掻き分け、孫を見るような優しい眼差しで青年を見つめておりました。
青年はアンコールの演奏を終えると、客席に向けて丁寧にお辞儀をしてステージから降りていきます。
「マスター、ビールください」
演奏を終えた青年がカウンターの方まで一直線に向かってきますと、マスターにビールをお願いしました。彼はグラスを受け取りますと、グイッと豪快にビールを飲み干してしまいました。
「いやー、今日も熱かったです! こんな冷たいビール、一気にぬるくなっちゃいますよ」
青年はマスターと陽気にお話しておりました。彼は視線を横に移し、カウンターに座るバクと妻に気付きますと「お越しくださってありがとうございます」と笑顔でお礼を告げました。
「この間までアメリカ言っとったったいね」
気さくな青年なのだと判断したのか、はたまた似た経験を持つ先輩として少し大きく見せたかったのか、バクは初対面とは思えないほど親しげにその青年に声をかけました。
「そうなんです! 向こうではビザを貰えなかったので。こっちで頑張ろうかなと」
「そうやったったいね。悔しかね」
バクの言葉に対して青年は眉を上げて不思議そうな顔をバクに向けました。
「いやいや音楽は世界共通ですから。僕は熱が感じられるなら場所はどこだって良いんです」
そう言って若いトランペッターは屈託のない笑顔をバクに向けました。バクが何かを言いかけた瞬間、ステージから「ジャムセッション!」という声が彼にかけられました。トランペッターは慌てた様子で「楽しんでってくださいね」とだけバクと妻に告げますと、再びステージへと戻っていきました。
このトランペッターのリーダーライブ後にはジャムセッションの時間が設けられておりました。プロアマ問わず楽器を持ち込み、その場で即興的に曲を演奏して楽しむ時間です。
楽器を奏でる皆さんは、汗をかきながら音楽を楽しみ、トランペッターの言う〝熱〟が確かにそこにはあるように思えました。
「俺はさ、彼の言う熱から逃げたったい」
バクはメロディーを奏でるトランペットの音色を聴きながら独り言のように妻に話し始めました。妻は静かにバクの言うことに耳を傾けておりました。
「日本に帰ってきてレッスンしながらサポートして、時々リーダーライブやって。でもさ、親に言われてさ。限界が来たったい」
木製のカウンターに置かれたバクの指が微かにその木を叩きます。
「音楽を続けるんか、辞めて普通に働くんか。選ばないかんやったと」
バクは懐かしむように、どこか遠くを見るような、視点の定まらない目をしておりました。
「日本でも無理やりしがみ付いとったら音楽で生きていけたと思う。でもさ、俺は親から言われたけんとか、金が無いけんとか適当な理由をつけて熱を追うことから逃げたっちゃん。それを求めてわざわざアメリカまで行ったとに」
妻はバクの木を叩く音が段々と大きくなっていることに気付きました。それと同時に演奏されている曲に合わせてリズムを取っていたのだと分かりました。
「ほら皆んな煙草吸いよるけん、こっからだとちょっとステージ煙たいやろ?」
バクは妻にそう尋ね、妻は「そうね」とバクのリズムを崩さないように言葉少なに返事をしました。
「こんな感じやったんよ。ぼんやりしとってさ。形のないものを追って、それが全く分からんくってさ」
バクは今まで音楽のことなど忘れてしまったかのように過ごしておりました。けれどもバクの口から紡ぎ出される一言一言を聞いて、妻はバクにもやはり後悔があったのだと確信したのでした。
バーに充満している煙はバクの心に密かにこびりつく音への未練を表すかのように、薄く淡く漂っておりました。
ここでトランペッターが頬をハムスターのようにぷくっと膨らませながら放つロングトーンがお店中に響き渡りました。これを皮切りに彼はトランペットによるソロを演奏し始めました。
トランペッターは力強くその空間を支配していきます。『一音入魂』というよく吹奏楽部の子どもたちが掲げる言葉とは正にこのことなのだと示しているかのようでした。
音色とはよく言ったものです。まるで彼の音には鮮やかな色が塗られているかのようでした。その色を孕んだ空気が、煙によって鼠色に霞んだカーテンを開いて明かりを灯しているようでした。
「俺は彼とは違って自分を守るためにこの道を選択した。本当は音楽続けたかったとに。自分で選ぶことをせんで、周りからの言葉を盾にして逃げる選択をしたっちゃん。それから俺はピアニストからピアノ弾きに、そしてただの青年になったんよ」
バクはグラスに残ったハイボールを一気に口へと運びました。
「別に熱いだけが熱じゃないんよ。こうして冷たいものでも熱は感じるったい」
バクは冷え切った心に閉ざされて、長らく放置されてきた錆びついた金属に僅かな熱を感じたのでしょうか。
バクは静かにステージへと歩いていくとホストバンドのピアニストと交代してジャムセッションに参加したのでした。
20年ぶりに鍵盤に手をかけたバクは手に掴んだ小さな熱を逃さないよう、大事な忘れ物を抱きかかえるようにして一音一音を丁寧に鳴らしていきました。
この時バクが、かつて握りしめていた〝熱〟に触れるという選択を自ら下したことに疑いの余地はありません。それはとても小さな、マッチ棒にも劣る小さな炎だったのかもしれません。
ふっと軽く息を吹きかけただけで消えてしまいそうな些々たる火。消された後にはそこにあった熱は忘れ去られるのでしょうか? ちょうど2人が飲んだハイボールの冷たさが身体の一部となってしまったように。
バクは、若いトランペッターが掴んで離さない熱に、以前バク自身が大事に抱えていた熱に、もう一度触れに行きました。
その瞬間のバクは50歳を超えた、ただの中年からピアノ弾きへ、そしてピアニストへと返り咲いていたのでございました。
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