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––––皆さんは『選択』というものをしたことはありますか?
答えはもちろん『イエス』でしょう。私たちは日々何かしらの選択を強いられているのですから。
今日のデートにはこれを着ていこう、晩ご飯はこれにしよう、仕事を休んでしまおう……。
こうした小さな選択の積み重ねが一日を、一週間を、一年を、そして人の一生を形成していくのです。
話が少し逸れてしまいました。私はこれから皆さんに人生論を説くつもりはございません。
ここで私が本当にお聞きしたいことは『後戻りできない大きな選択』を能動的にしたことは今まであったか、ということなのです。
今、私はある場所からの帰りの飛行機の中におります。あまりにも長時間な移動で、寝ることにも飽きてしまった私はこうして皆さんに求められてもいない昔話をしようとしております。
どうかこの70歳を超えた年寄りの〝選択〟に付き合ってはくださいませんか?
これは私がよく知る家族、特に父と娘——ここでは父親をバク、娘をホノカと呼ぶことにいたしましょう——の昔々の物語でございます。
「パパ。パパって昔、ピアノ弾きよったん?」
ある日の夕飯時、テーブルに着いたホノカはバクに尋ねました。バクは何となくチャンネルを合わせたバラエティー番組を眺めておりました。
ホノカは福岡県で生まれ育った17歳の女子高生です。なるほど、博多弁が全国的に人気なのも頷けるその訛りは抑揚があって耳に余韻が残ります。その語尾の上がりはまるで愛猫がスリスリと頬を脛に擦り付けてくるようなくすぐったい感覚を想起させます。
それも話しているのがホノカのようなまだあどけなさが残る女子高生であるならば、大人はイチコロでございましょう。そう、相手が実の父でなければのお話でございますが。
「お前それ誰に聞いたと?」
ホノカとは違って低いくぐもった声でぶっきら棒にバクは聞き返しました。彼は娘の方を見向きもせずにぼーっとテレビを見つめております。
画面にはひな壇に座る若手芸人たちが身体を張ったギャグを披露しております。そしてそれを手早くさらなる大きな笑いに進化させる大御所司会者はさすがの一言でありました。
「ママ。それにアメリカ行っとったっていうのも聞いたよ」
バクのチャンネルを握っていた指がピクリと動いたのをホノカはしっかりと見ておりました。
ホノカに情報を与えた張本人である母親はというと、バクの後ろで静かに気配を消そうと試みているのでした。それはまるで警察の手から逃れる指名手配犯のような面持ちでありました。
「昔な」
「本当なんや。凄いやん」
「大したことないばい」
ホノカの少し興奮したような反応とは正反対に、どこか錆びついた金属のような、疲れきった声でバクは答えておりました。
母親は戦々恐々としておりました。それもそのはず、ホノカは「父はなぜピアノを辞めてしまったのか?」というのを聞きたがっていたからです。
海外にまで行ってピアノを学んだ情熱を捨て去り、今ではMR、いわゆる医薬情報担当者となって一家の大黒柱として働いているのでございますから、ホノカの疑問は至極真っ当なものと言えるでしょう。
ホノカが産まれる10年ほど前にバクは難しい選択をしたのであります。それでも当時からバクは飄々としておりました。
しかし母親は、いやバクの妻は彼の内心を勝手ながら推し量り、自分の口からは言えないとホノカには適当に濁していたのでありました。
母は現在のバクの状況から、空気を読んでピアノのことには触れないという選択を娘がしてくれると期待しておりました。しかし、そんな母の願い虚しくホノカはこの話題を出してしまったのです。
「アメリカにまで行っとったとに何で辞めちゃったと? 勿体無いやん」
ホノカは包み隠さずその疑問をバクにぶつけました。その純粋さが、時には残酷なものになってしまうということに気付くには、当時の彼女はまだ若かったのでしょうか。
バクはチャンネルから手を離すとそのまま顎に手をやります。
朝剃ったはずの髭が少し伸びてきており、顎を掻く度にシャリっという音が微かに聞こえてきます。それはバクが心の中で答えを形どるための作業音のように思えました。
「皆んな上手やったと」
バクの答えは流水によって侵食された岩石が丸みを帯びたように角の取れたものでございました。
「でも音大出たっちゃろ? 日本帰ってピアノの先生とかでもできたはずやん?」
ホノカはバクという大きな川に新たなゴツゴツとした岩石を容赦なく投げ入れます。バクは微かにため息をつくと返答しました。
「生きていかないといけんっちゃん」
バクはまたしてもシンプルな答えをホノカに返しました。けれども今回は岩石を削り切るには時間が足りなかったのでしょうか、その言葉からは少し鋭利なものを感じさせました。
ホノカもその微妙な鋭さを察知したのか「ふーん」とだけ言ってテレビの方へと目を向けました。
「明日から修学旅行やろ? 歯磨いて早よ寝りーよ」
母親はこの絶妙なタイミングを逃すまいとホノカに寝る支度をするよう促しました。自分はというと、テーブルに置かれたままの食器を持って、そそくさとキッチンへと引っ込んでいきました。
その間バクはただ静かにテレビを見つめているのでありました。
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