貴方を殺して有名になりたい

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携帯電話から流れる楽曲に意識を集中する。何も考えない。仕事のことも、他人との付き合いのことも、世の中の動きも、明日の天気のことも、すべてを忘れて本物の音楽に身を委ねる。 田口はギルドを聴きながら生まれ、ギルドと共に育った。そして今この瞬間もギルドを聴いて気持ちを昂らせている。 ギルドは結成四十年になろうかという老舗のハードロックバンドだ。レコード・CDの国内累計売上枚数が圧倒的首位としてギネスブックにも掲載されている。四人のメンバーはいずれも還暦を過ぎているが、未だに人気が衰える気配がなく、それどころか歌唱力演奏力共にますます磨きがかかって、常に今現在が全盛期という最高の状態を保っている。まさに神だ。 それに比べて田口はどうだ。三十歳を過ぎても正社員になれず、しかも現在失業中であり、結婚して家族を持てる見込みもない。今の田口には何もない。 ギターを始めたことがあった。しかしギルドのギタリストのマツダの千分の一ほどの才能も持ち合わせていなかった田口は、ただ隣近所に騒音を撒き散らしただけに終わった。 そんな田口には、他人に語って聞かせるほどの女性との思い出は何もない。 楽曲の再生が終わった。田口は携帯電話を、薄いがとても頑丈な軍用生地で作られた迷彩模様のカーゴパンツのポケットに落とし込んだ。 近所のスーパーマーケットへ行こうと思う。晩飯の弁当を買う。田口は料理が嫌いだ。晩飯はスーパーの惣菜コーナーの値引き品と決めている。朝飯はインスタントのお茶漬けだ。 玄関でスニーカーに手を伸ばそうとしたときだった。玄関の扉を叩く音と共に、見知らぬ男の声が田口の名を呼んだ。 「おられますか」 扉を叩く音が止まらない。 「警察です。おられますか」 いないと言ったら、いることを自白することになるし、そうかと言ってこのまま無視を決め込んでいたら、警察を名乗る不躾な来訪者はいつまでも扉を叩き続けることだろう。悪目立ちして近所の迷惑になることだけは極力避けたい。田口はこうする以外に対処の仕方が何も思い浮かばずに、まるで気乗りしないまま扉を開けた。 連日の猛暑続きだというのに、警察を名乗る来訪者の男はダークカラーの背広を着込み、しっかりとネクタイまで締めていた。見ているこちらのほうが暑くなる。見ているだけで、滝の汗を吹き出しそうだ。 「田口春生(たぐちはるお)さんですね」 もしも違うと言ったら、身分を偽ったことになるのだろうか。そして逮捕されたりするのだろうか。田口は「そうですが、田口ですが、それが何か?」と言って、早く帰って欲しいことを態度で示すべく、目の前の警察を名乗る不躾な来訪者から目を逸らした。 「私、こういうものです」 目の前の警察を名乗る不躾な来訪者は一枚の名刺を差し出して寄越した。田口はそれを受け取って、目を通しもせずに握り潰してカーゴパンツのポケットに突っ込んだ。
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