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ひと気のない階段の隅に来た詩歩と橋浦は立ち止まる。
「ここで話そうか」
橋浦は一息ついてから話し始める。
「本題から言うとね、赤坂さんにクラスの合唱祭実行委員をしてほしいんだ」
「え、私が合唱……」
「推薦ってだけね」
本題でさらに戸惑う詩歩の言葉に、橋浦は言い加えた。
「どうかな。やってみない?」
頭が混乱して、俯きながら黙る詩歩に橋浦は優しく訊ねる。
考えているうちに、合唱部でのことからいじめを受けていることが詩歩の頭をよぎっていく。そして、どす黒い感情が心の中から湧き上がってきた。
「わ、私は、そんなんじゃない。逃げてばっかりで、ただの弱虫……」
橋浦は泣き出すのを我慢しながら話す詩歩と目線を合わせて頷く。そして、何の話かは分からないけどと話し出す。
「そう思ってるんだね。でも、あなたは悩むことや考えることから逃げてない」
橋浦は震える詩歩の手を両手で優しく包み込む。
「それだけで、あなたはもう強いんだよ」
橋浦のその言葉で、詩歩の狭い世界が少し広くなった気がした。
落ち着いた詩歩は、前の学校で合唱部だったこと、そこでの空気が嫌になって逃げてばかりだったことを橋浦に話す。ただ、いじめのことは話せなかった。
二人の脇を通っていく生徒に挨拶をしながらも、橋浦は詩歩の話を真剣に聞いて受け止める。
「そっか。確かに、あそこの合唱部は先生も知ってるくらい全国レベルで有名よね。そこの圧やプレッシャーは計り知れない」
楽しそうに笑い合う生徒を見送った橋浦は、腕を組んで考え込む。そんな橋浦に怒られないかと不安な詩歩は、組んだ指をいじりながら彼女の表情を窺う。
「先生はね、赤坂さんは歌うことが好きなんじゃないかなって思ったから推薦したいの」
意外な言葉に詩歩は俯いた顔を勢いよくあげた。
「なんで、ですか?」
詩歩の驚く顔を橋浦は微笑んで見る。
「だって、歌う授業で見るあなたはすごく楽しそうなんだもの」
橋浦が自分を見ていてくれたことを知った詩歩は心が温まるのを感じる。
「外国の歌が苦手なだけなのかもしれない。実行委員になれば候補の曲を自分で選べるわ」
黙ったままの詩歩に橋浦は話し続けた。
「先生は、赤坂、詩歩さんが楽しく合唱をしているところを見れたら嬉しいな」
ゆっくり考えてみてくれたら良いなと言い残して、橋浦は詩歩と別れた。
「そんなこと言われたら、やるしかないよ」
一人呟く詩歩の顔は、目が潤みながらも笑顔だ。そして心の中で、できるだけやってみるかと思っていた。
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