中3 夏

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中3 夏

人波をかき分けて、急ぐ。肌を焼く日差しの熱より帽子に籠もった湿気の方が許せなくて炎天下、帽子を取った。髪と頭皮をなぞる弱い風でも、涼を感じられた。 木陰を求めてグラウンドを離れると、公衆トイレの前に、いた。入り口に影を作るように植えられた木の周りに、腰掛けるのにちょうどいい柵が張り巡らされている。チームが違う2人の、いつもの待ち合わせ場所。 「もー、(りつ)聞いてよ。母さんってば、アイス代も出してくれないんだよ?」 「そりゃ、(らん)が無駄遣いするからだろ」 「ぐっ」 「つーか、頭皮って焼けるとハゲるんだって」 「な゛っ」 慌ててキャップを被る。あたふたする俺を笑うことなく、律は読みかけのスコアブックを閉じた。 「それ、いつの試合...」 「それより、他に言いたいことあんだろ?」 いっぱいになったエメラルバッグに差し込んで、ファスナーを閉める。鞄の形が、ボコボコと変わっていた。捕手の荷物は、多いのだ。 「さっきS高のスカウトに声掛けられてさ、一緒に甲子園目指しませんかだって!スゴくない!?」 「名門だもんな」 「でしょ!?」 食いついてきてくれたことが嬉しくて、隣に腰掛ける。 「でもそんなの、珍しくないだろ」 「そうなんだけどっ」 実際、去年から声を掛けてくれていた学校もある。自慢したときに律は、「だって藍はそういう投手だろ」と驚かなかった。触れ回らないよう釘を刺してきた親より、自分のことのように誇らしいと肩を叩いてくれた自チームの捕手より、ずっと熱い反応だった。けれど、自分はこの子のように冷静でいられない。 「その人、お前にも声掛けてみるって言ったんだよ!リードも打席の読みもいいし、身体さえ出来上がればいいキャッチャーになれるって!」 初対戦、勝負球を狙い打たれた時から持っていた自分の熱意を、共有してくれる人が居た。「あの子知ってる?」と問われたときからの興奮を、抑えきれない。 「だからさ、一緒にS高行って、2人で」 甲子園に行こう―――。 蝉時雨が遠くなる。まさか自分が漫画のような台詞を吐くようになるとは思わなかった。 「藍」 焼けそうな喉元を、一度落ち着かせた。律の黒いキャップのつばが、持ち上がる。影の下にいても分かるほど、頬が赤く火照っていた。この暑いのに、アンダーシャツを着込んでいるせいだ。 「ごめん」 形のいい唇が、静かに紡いだ。 「...なんで」 自分の性質を考えても、もっと激しく喚いて返したかった。しかし口から出てきたのは、震える小声だった。 「高校では野球、しないから」 せめて行き先が決まっていたのなら、勝負しようと言えたかもしれないのに。怒りと嫌らしさを込めて、言ってしまえたのに。 「なんで、野球嫌い?」 「嫌いじゃないよ。好きだからやめるんだよ」 柔らかい声音に、いやいやをするように首を横に振った。わけがわからない。 「嫌いになる前に、やめるんだよ」 頭の上で鳴いている蝉の声が、脳にガンガン響く。視界が滲むのは、その痛さのせいだ。 だって、わけがわからない。律が、会う度に野球の話しかしない律が、野球を嫌いになることなどあるのだろうか。チームメイトや家族に見せたら敬遠されてしまう自惚れの強さも、彼は投手らしいと笑って受入れてくれた。 一度、投げてみたかった。立ったままするキャッチボールではなく、マウンドから、正面に座った彼に向かって。 バッテリーを組みたかったのだ。明確に言葉にしたことはなかったが、彼だってきっと同じだった。 なのに、こんな仕打ちってない。 「藍、黙ってたから悪かったと思うけど、知ってると思ってた」 鼻から息を吸うと、不格好な水音がした。口呼吸に変えると、息が詰まって苦しくなる。だから手の甲に落ちた水滴は、汗ではなく唾かもしれなかった。 濃くなる影に、顔を上げる。柵から下りた律は、すぐ隣に立っていた。距離にして、数十センチ。小柄といわれる自分よりも頭ひとつ分小さくて、細い選手だった。 「だって、女子の野球じゃ飯食えねえじゃん」 朗らかな笑顔の前に、なんて間抜けなのだろうと思った。俺自身が、だ。 「...いや、お前おっぱいねえじゃん」 手を叩いて笑ったので、おそらく正解だったのだろう。確かに律は周囲の選手の中でもひときわ小柄だったが、クラスの女子のような曲線を身につけていなかった。耳が隠れる長さの髪は男にしては長いなと思うくらいで、切れ長の目も女顔だなとしか思わなかったくらいで...。 今度は頭が沸きそうだった。それもこれも、命に関わると謳われる暑さのせいだ。 「まあ、どこ行こうが藍の自由だけど」 トン、と右胸のあたりを拳で突かれた。律がマウンドの投手に語りかけるとき、よく使う動作だった。グラブがないせいか、心臓がドキリとはねる。 「絶対、エースになれよ」 黒い瞳を、じっと見つめる。臨戦態勢の色だった。サイン通り、信じて投げ込んでこい。そう言うのは、自チームの捕手だった。 情けない顔のエースになど、用はない。 「もちろん」 俺は「そういう投手」なので。信頼に応えるように、視線で頷いた。 「ご、ごめん」 「?」 急に手を引っ込めて後退るのが、不自然だった。律にとって俺は、「余所様の投手」に過ぎないのかもしれない。 「とにかくおうえ...、信じてるから」 「おう」 応援よりずっと、重い言葉だ。じゃあねと言い合って、別れる。ひとあし先に日向に飛び出した背中を、見えなくなるまで見送った。 それが、律を見た最後だった。
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