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高卒8年目 オフ
医師は渡されたボールの置場に迷い、最終的にデスクの上に転がした。喜んではくれているようで、何よりだ。もっとも、医師の後ろにいる看護師は菓子折の方に目を輝かせていたが。
「皆で応援してたんですよ、三吉投手の復帰戦」
病院のテレビじゃCSは映らないからどうしようと思ってたんですけど、地上波で放送されてるって聞いて一安心しました。
「それはそれは...」
よかったですね、なのか。ありがとうございます、なのか。
「なんか、感動しました。5回のピンチを抑えた所なんて、4番の」
「先生、野球お好きですもんね」
さして興味なさげな看護師の前で、「あのピンチで球数がかかったから、代えられちゃったんですよね-」とは言えない。
「感極まって泣いちゃった看護師もいたんですよ。えっと...」
「日高ちゃんのことですか?あの子、看護師じゃなくて栄養士ですよ」
日高?
聞き覚えのある苗字に、差し上げたボールを弄っていた失礼な手が止まった。
「そうそう。ちょうど三吉投手と同い年で甲子園見てたから感情入った、って言ってたな」
「患者の特別扱いはよして欲しいですよ。ホント、あの子も好きですよね。表だっては言いませんけど」
同い年。
ボールの上に置いていた指先に、血が巡っていくのがわかる。
「あの、その子...」
知り合いでない可能性の方が高いから、「その人」と言った方が正しかったかもしれない。しかしサインボールと菓子で興奮気味の相手には、何の違和感もなかったようだ。
「よかったら挨拶して行かれます?今の時間なら、裏庭の木陰だと思いますよ。休憩時間とはいえ、やめて欲しいんですけどね。患者の目もありますし」
「休憩時間はどう使おうと、個人の自由ですからな。えっと、下の名前は確か...」
「律ですよ。日高律」
看護師の一声にはじき出されるようにして、病室を出た。
「若い子は『りっちゃん』なんて呼びますけど、親は男の子につけるつもりだったんじゃないですか、あの名前」という看護師の余計な一言も、廊下で「走らないでください!」と声を荒げられたことも、どうでもよかった。
身体が勝手に走るのだ。小学生でもしない言い訳だが、本当だった。
全力で腕を振れ。全力で走れ。そして、
俺を信じろ。
これは交換条件だ。
全力で腕を振れ、全力で止めてやる。全力で走れ、こっちも全力で走りきってやる。
俺を信じろ、俺も―――。
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