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高3 秋
詰襟の皺を直して、誰もいないグラウンドに向き直る。照明がたかれた練習用グラウンドでひときわ輝くのが、俺の定位置で、誇りだった。
「藍、さっさと来いよ。おばさんがケーキ用意してるって」
「おう、もうちょっと」
「風邪ひくなよー」
制服しか着込んでいない身体に、冬へのカウントダウンを始めた秋の夜の空気が容赦なく刺さってくる。それでもなお暑いのは、興奮と身体のあちこちに残る体温のせいだろう。
「よう、ドラ1が風邪で寝込むなんて笑えねえぞ?」
「な゛っ」
目の前に女子高生が、いた。半袖のブラウスに、赤いリボンが映えている。
「律、おまっ」
「よう藍、やっと気付いたか」
実に2年ぶりの「再会」に、言葉が上手く出てこなかった。まただ。何から話せばいいか、わからない。
「...寒くねえの」
「そこかよ」
呆れたように眉を下げて、
「霊なんだから、暑さも寒さも感じねえの」
と言い足した。声のトーンを下げて優しく目尻を下げるやり方は、見慣れたものだった。同い年なのに子ども扱いされているようで気にくわなかったが、今ではその表情が酷く懐かしい。
「写真撮影あたりからいたんだけど、すっげえ盛り上がり。やっぱプロだな」
「そりゃあ、俺はそういう投手ですから」
いつかおだててもらった言葉と共に、胸を張った。子どもくさいポーズに、胸の辺りがくすぐったい。「調子に乗るな」と冗談めかしてツッコんでくれればよかったのに、
「そうだな」
とあっさり返されてしまうと、さらにやりづらい。
「っていうか、律に見せたい物があるんだ。部屋にあるから、来いよ」
「え、いいの?」
ポカンと開いた目と口が、可笑しい。
「いいだろ、今俺1人部屋だし。どうせ誰にも見えないんだろ」
『律』は深く頷いただけだった。落ちてきた横髪を、白い指で耳に掛け直す。初めて見る仕草に、一瞬息を呑んだ。
見せたかったのは、机の上に飾った小瓶だった。椅子に座った『律』は頬を机に預ける格好で、デスクライトに照らされた瓶を見上げていた。
「…すげえな」
「だろ」
「…2つ足りねえ」
「おい!」
夏の後はチームの始動が遅れるから、秋は大変なんだぞ。
姿勢を変えずにくすくすと笑う様子に、ため息だけで許すことにした。
「それ全部、律の分だから」
「え?」
体を起こすと、髪がさらりと流れる。…どうも慣れない。
「持っていこうと思ったんだけど、さ」
「うん」
一度は居留守、後は日程と気分が合わなくて、3年分の夏がそのままになっていた。
「どうしようか迷ってたんだけど、送ってやろうか?住所ならわかるから、」
「いや」
藍が持ってて。
背筋を伸ばして、聖地の砂と対峙していた。
「俺の分はあんだよ」
「わかってる。実家に仕舞い込んでしまって構わないから、藍が持ってて」
有無を言わせぬ口調に、頷くしかなかった。
「なあ、律って今…」
野球を見ることさえ、しないのだろうか。
「しがないただの受験生だよ」
わからないと濁されると思っていたので、明確な答えには驚いた。なんだ、本物とも会っているのか。そんな俺の思考を読んでか、彼女は唇だけで笑みを作った。
「そんなの、見なくったってわかる」
私だもん、とスカートを握る皺が深くなる。俺はただ、数年前の流行歌を思い出す。
だって、わかるわけがない。同じ方向を向いているはずの願望と気持ちが、対立するなんて。目の前で痛がられても、理解はできなかった。
沈黙に耐えかねていると、部屋のドアが乱暴に開けられた。咄嗟にジャケットを脱いで、椅子に被せる。女子禁制の寮に女の子がいるなんて、大問題だからだ。これで人が隠せるわけもないのに。
「藍、いい加減来いよ!腹減って死にそう!!」
「うるせえ、ノックぐらいしろ!」
「女子みたいなこと言うな!」
しかし、救われた。ちょうど空腹も限界に近かったのだ。友人を追う前に一声掛けよう椅子を見下ろしたが、その上にはジャケットが丸まっているだけだった。
そう、隠すも何も、『律』は他人に見えないのだ。俺がたまに見えるというだけで。
「律、」
独りぼっちの部屋の床に、自分のものではない誰かの名前が落ちる。無性に寂しくなって、駆け足で部屋を出た。
だって今日は、めでたい日なのだから。
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