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 あれはいつの記憶だろう。 『痛いの、痛いの、とんでけー』  あいつがそんなこと言って僕の胸に手を当ててたっけ。辛そうな顔してるからってさ。それがあまりにも子供っぽいおまじないだから笑っちゃって、そしたら『笑ったな』ってあいつは喜んで……。  あれは誰だったっけ。  黒く塗りつぶされたみたいに、名前と顔だけがさっぱり思い出せなかった。  確か、あいつは客で僕は男娼。  でも、あいつが僕を抱いたのは一度きり。次に店に来た時から、行為はしなくていいから話し相手になってくれ、なんて言う変な奴だった。 『周ほど綺麗な人を見たことがないんだ』  会うたびにそんなことを言って僕を口説いて、あいつはただただ嬉しそうに僕を眺めてた。僕をまるで子供みたいに胡坐の上に座らせて、背中から優しく抱きしめ、それから僕の手を掬い上げて甲にくちづけを落とす。それが癖のようになっていた。  大切になんてされたことがなかった僕は面白いぐらい簡単に恋に落ちて、あいつが来るのを今か今かと待ち侘びるようになった。他の客を取るときも落ち着かず、対応の悪さに折檻を受けたこともあった。  だって、あいつ以外に触られるのが気持ち悪かったんだからしょうがない。  でも、あいつに対しては素直になれなくて、いつもつっけんどんになってしまっていた。 『身請けしたい』  そう言いだしたのはあいつが通い始めてから一年が経った頃。  僕は嬉しすぎてどう反応していいかわからず、いつものように冷たくあしらってしまった。 『決して悪いようにはしないから、受けてくれると嬉しい』  身請け話は僕の意志なんて関係なく、お金さえ出せば楼主が進める。だから、僕に訊く必要なんてないだろ、なんて言って照れを隠した。あいつは苦笑いしながらも、次に来る時に身請け金を持ってくるから、って帰っていった。  あいつを見送った後、僕は身請けされることになったと楼内の皆に言いふらした。幸せの絶頂に立っている気分だった。どんないい暮らしができるんだろうって妄想もしたけど、あいつと一緒にいれることが何よりも嬉しかった。  でも、それから一月経っても二月経ってもあいつは来なかった。楼主も驚いていたけど、僕は驚くなんてものじゃ済まなかった。 『見捨てられてカワイソー』 『我に返ったんじゃない? あんな態度ばっかりとってるから』  そんなことを言ってくる奴らを顔が変形するほど殴り続けてしまうくらいに、自分の惨めさに打ちのめされていた。  結局そいつらの分まで働かないといけなくなって、毎日毎日客を数人相手して。その度に思い出すのはあいつに一度抱かれた時のことばかり。どうして素直に嬉しいと言えなかったのか、あの時一つでも頷いておけば、今はあいつと一緒にいれたのか。なんて後悔ばかりが胸を占めていた。  馴染み客が何人もできたけど、心に空いた穴は埋められることはなかった。もう、あいつに触れられることはない。背中から抱きしめられることも、手の甲にキスされることも、顔を見ることさえもできないのだから。  そして冬が終わる頃、生きている意味を見つけられず、僕は自ら――……  こめかみに涙が伝う。  懐かしくて虚しい記憶。乾いた笑いがこぼれた。  輪廻なんて信じたこともなかったし、あれから幾多の『(あまね)』という人生を繰り返してきたなんて、そんなこと思い出したくもなかった。しかも、何の因果か、僕は毎回生き方を失敗して、自分を死に追いやってしまう運命にあるらしい。  ただ、今回は輪廻の輪に戻ることなく、ユノスの中に入ってしまったみたいだけど。  いつもとは違うとはいえ、ほとんど終了を言い渡されている人生には変わりない。ここまで恵まれてないなんて疫病神でもついてるのかもしれない。  瞼を開ければ、朝見た天井が目に入る。教室で意識を失ったことを思い出しつつ、病院にとんぼ返りしたのだと悟った。あの頭の痛さはすっかりなくなっていて、前世の記憶が蘇った所為だったんだなって妙に納得がいった。 「……はぁ、こんなの見せなくたって……」  混乱しているのも確かだけど、それよりも気持ちが滅入ってしまう。溜め息を吐いて起き上がると、目に入ったのは壁際のソファで寝息を立てるエリオだった。 「エリオ……あいつに似てるんだ……」  思い出すきっかけになったのは間違いない。  何だか無性に寂しくて、僕はベッドから降りてエリオの側に立った。それから、掛けてあったブランケットを躊躇なく剥ぎ取った。 「……んむー、……あぇっ!?」  寒さにぶるりと体を震わせたエリオが目を見開いて飛び起きた。その顔に満足して、僕はにっこりと笑ってやった。 「おはよう、エリオ」 「おは、よ……――ってか、体大丈夫か!?」  大慌てで立ち上がると、凝りもせずペタペタと触ってくる。ただ、あいつを思い出したからか全く嫌悪感はなく、反対に久しぶりに触られているような気になってなんだか嬉しくて…… 「もう、しつこい!」 「あ、わり……」  酷く恥ずかしくて、それを誤魔化すのにエリオの手を払い除けてしまった。エリオが申し訳無さそうに頭を掻くのを見て、何度自分は同じことを繰り返すんだろうと途端に怖くなる。 「だ、大丈夫だから。あんまり触られるの慣れてないだけで……、だから別に嫌とかじゃ……」  僕が言い訳がましく言うと、エリオはパチパチと瞬きしてから破顔した。 「知ってる。でも、嬉しすぎて触りすぎる俺も悪いし」 「嬉しい? ……僕を自分のモノにできたこと?」 「んーまぁ、そんなとこ。――さて、悪いところはなさそうだし、一回診てもらって、寮に戻りますか。ゆっくり休まなきゃだしな」 「やっと病院から出れるんだから、どこか寄りたいんだけど」 「ダーメ。さっきもぶっ倒れたくせに何言ってんだよ」 「……けち」 「けち!? ……けちって」 「折角エリオとデート、って思ったのに」  「……おまえなぁ、そういうかわいいこと……」  唇を尖らせていると、ふぅ、と深く息を吐き出しつつエリオが頭を抱えた。 「口先だけとは言え、そういうのは軽々しく口にしないこと。俺の理性をこれ以上揺らがせるなよ」 「えー、いいんだよ、我慢しなくて。僕はエリオのモノなんだから」 「こら、そういうとこ。俺のモノだったら、なおさら自分のこと大事にしてくれないと」 「はいはい。マジメ君」  嫌がってないんだから襲っちゃえばいいのに、って思うけどエリオには無理そう。僕の貞操観念がおかしいのかもしれないけど、そこは男らしくどしっと構えていて欲しいっていうか、こんなところまであいつと似なくていいのに。  そこそこ整っている顔を見つめていると、エリオが微笑む。途端にとくとくと僕の胸が音を立てた。ほら、と手を差し出されて手を繋ぐ。僕があいつと送りたかった何気ない日常のワンシーンがここにあって、どこかむず痒かった。
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