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第1話(プロローグ)
刑吏が去り、物見高い人々の輪が崩れて散っても男はそこから動かなかった。砂の広場には幾多の血を吸い、今また新たに朱に染められた十字架が二台立っている。
磔となって絶命しているのは女二人だ。片方は年配で片方は若い。それを見つめる男の目から砂混じりの風がたちまち涙を奪ってゆく。それでも濃く熱い涙は止めどなく湧き出して男の顔に砂を付着させた。
跪いた日干しレンガにも砂は浮いている。この街が砂漠に浮かんだ島のようなものだ。貧しいこの国で唯一の街に刑場があり遺体を晒している。
酷い後進国、野蛮人、疫病に飢餓……他国の抱くイメージはこんなところか。
泣いて泣いて、とうとう男は引き攣った笑いを浮かべる。本当に笑えるほど自分は無力だ。磔にされ刑に処されて、未だ血塗れで十字架にへばりついているのは母と妹だった。あんな所からすぐさま降ろして抱き締めてやりたかった。
怖かったか? 痛かったのか? 今となっては聞くこともできない。
この国なら何処にでも転がっているような話である。母と妹は反政府武装勢力と思しき者たちに一夜の宿を提供しただけで処刑されたのだ。それこそ母と妹が相手の素性を知っていたかどうかでさえも定かでない。上手く騙されたのか敢えて訊かなかったのか。
政府はゲリラの意欲を削ぎ転向させるためなら何だってする。勿論、直接攻撃もたまには仕掛けるそうだがカネを掛けずに殲滅しようと腐心しているという噂も聞く。政治を捨ててまでゲリラ殲滅に躍起になっていて、本末転倒だという噂もまことしやかに流れていた。
だが力もなく諦め切った男にそんな話など、どうでも良かった。
しかしあんな所に母と妹を晒しておくのは我慢ならない。何もできなかった分、せめて手厚く葬ってやりたい。そう考え始めると気が急いて堪らなくなる。
けれどギラつく太陽はまだ隠れなく辺りを隅々まで照らし出し、母と妹の亡骸を奪い去ることは叶わない。哀しいが罪人の係累とバレるのも、あらぬ疑いをかけられる元なので人目は避けることが重要だ。拷問にかけられ『罪』を認めなかった者はいないのだから。
同罪を疑われた時点で次にあそこに架けられるのが自分と決まる。
処刑され晒された者は翌日には砂漠に掘られた穴に放り込まれ、石灰を撒かれて無造作に埋められるのだ。吹きすさぶ熱風により日々地形を変える砂漠で、遺体が露出し転がっていることすらあるという。石灰を撒くのは露出しても腐敗するのを遅らせるためだ。砂漠の日射しなら病原体となる前にミイラの出来上がりである。
母と妹をそんな目には遭わせられない。
日干しレンガの地面に膝をついていた男は立ち上がった。これ以上人目を惹くのは危険だ。涙を拭いもせず街を縦断する大通りを歩き出す。右手に見えた厳重な囲いの中の巨大な建物を、その内部の人間を射殺さんばかりに睨みつけながら思った。
今晩しかない。奴らを捜すんだ。
極貧の国ではあるけれど、それなりの体を成している病院や学校が見えてくる。それらの建物を横目に躰に巻きつけた砂よけの布を翻して歩いた。
こういった施設は街に住まう政府の役人や軍関係者御用達で、砂を引っ掻いて生きている自分たち平民とは縁がない。
平民の一人や二人生きようが死のうがここの政府を組織する人間たちには何ら関係がないのだ。一人減ったら他の一人に倍の量、砂を引っ掻かせればいいだけなのだから。
そんなお粗末な思考で政府を運営している政治屋が本当は何を考えているのかなど男には計り知れない。まずまともでないのは確かだ。
だから反政府組織があるのか、などと今まで全く興味のなかったことを考える。
考えながらも建物を護る兵士に男は暗い目を向けながら先を急いだ。やがて街の住民たちで賑わっているバザールに差し掛かる。
ここでは地下深くから汲み上げられ豊富に使える水のお蔭か、それとも国外からの輸入ものなのか、みずみずしい野菜や果物が所狭しと並べられていた。
こういった場所にも縁のない男は店を見て回ったが、どれも持ち合わせたカネでは到底買えないものばかりである。
村民は基本的に配給制なので個人がカネを手にする必要が殆どないのだ。村民がカネを手にして砂を引っ掻くのを辞めたら政府が困るからだろう。
それでも最後の一軒の店で黄色く熟れた果実を二個、なけなしのカネと交換して手に入れた。潰れないよう紙に包んで貰い、大切にポケットに収める。
街外れまで来ると預かり屋の老人に無言で合図し、ポケットの小銭をさらえて駐車料金を精算した。自分の四輪駆動車に乗り込むとステアリングを握る。政府支給の四駆は相当な年代物だったが、男の胸中とは裏腹に軽快に砂漠へと滑り出した。
まずは母と妹の住んでいた村に向かう。男は結婚して女の村に移動させられ、女は病気で呆気なく死んだが男は元の村に戻れないまま、悲劇が起こってしまったのだ。
村への途中で一度、砂の中にキラリと光るものを認めて四駆を停止させる。助手席に積んであったスコップを担いで熱砂に降り立った。見当をつけた場所を掘り返す。
たちまち汗が噴き出して数分ののちには汗もかけないほどに渇いたが手は休めず、頭からベージュの砂だらけになって、やっと蒼い炎のような色をした鉱物をふたつ発見する。スコップと共に鉱物を助手席に積み、また四駆を走らせた。
辿り着いた村で男は内心酷く落胆する。母と妹が一昨日連行されたばかりなのに、そう思わせる雰囲気は何処にも残っていなかったのだ。いずこの村でも等しく見られる日常的光景が熱気で揺らめく中に横たわっているだけだった。
ただ嵐が吹き荒れたあとのような母と妹の無惨な小屋から出てみると、屋根の砂掻きをしていた隣家の女が既知である男を怯えたように一瞬見て、俯き目を逸らした。たったそれだけが母と妹の暮らしていた痕跡と思うと、またタガが外れたように笑い出したくなる。
敷かれた日干しレンガがあちこち擦り減り、欠けてひび割れた通りを歩く間も誰一人として男に近寄る者はいなかった。
腹立ち紛れに村の井戸のポンプからごく細く流れ出る水を腰から外した水筒に溜めていると、数人の村人が遠巻きながら咎めるような視線を送ってくる。水が貴重なのは勿論分かっていた。
荒んだ気分で構わず水筒を溢れさせると、続けて空腹までも水で満たしてやった。
再び四駆に乗って砂漠に出る。自分の村に戻る気はない。
だが男が探し求める者たちが何処にいるのか全く分からない。彼らは四駆だけではなく軍から奪ったヘリコプターまで使って移動しているという。
時には軍と殺し合いをしているのだからヘリコプター程度の装備は当然なのか、それとも特殊なことなのかも判断がつかないが、とにかく母と妹を手厚く葬るためには奴らを味方に引き入れることだ。
その機影を視界に探し求めて、男は四駆を砂漠に彷徨わせた。水で誤魔化した空腹を他人のもののように無視して砂の丘を何度も昇り、また下る。その間にも何度か四駆を降りてスコップを振るった。
長いこの国の昼も終わり、大きな太陽が血を滴らせているかの如く赤く染まって地平線に墜ちてゆく頃、諦めかけていた男は野営の準備をしていた奴らを見つける。奴らは政府に盾突くだけの思想があるのだろうが、男にそんなものは欠片もなかった。
ただ警戒させぬよう大きく丈夫そうな二張りのテントの随分手前で四駆を降り、砂を掘り返して採集してきた蒼炎色の鉱物を両手に抱えて近づく。奴らの方から声が掛かった。
「どうした、迷い人かい?」
「違う。あんたらに頼みがあってきた。今日、処刑された二人を取り戻したい」
一息に言って相手の反応を窺った。公開処刑があったのは知っている筈だった。今日は砂嵐による電波障害もなく、政府運営の放送局から流れた情報くらい聞いているだろう。
徐々に人々が集まり始めた。一人が男に問い返す。
「あの二人は可哀相なことをしたな。あんたの係累か?」
「母と妹だ。聞いただろうが、あんたらの仲間を匿って殺されたんだ。それとも匿われたのは仲間じゃなくてあんたら自身なのか?」
「それは違う、俺たちとは別のグループらしい」
十名ほども集まった男女に男は抱えた鉱物を差し出して見せた。
「これであんたらを雇いたい。砂の花、五個ある」
「お袋さんと妹さんをあんな所から降ろして葬ってやりたい、そういうことか?」
先読みされて男は黙って頷く。女たちがテントを張り終えて煮炊きを始めるのを眺めながら、男の前で十名ほどが相談を続けていた。
その足下に男は砂の花を投げ出す。鉱物がぶつかり砕けて薄い玻璃が割れたような高い音を奏でた。同時にギターの音が流れだす。
哀愁を感じる弦楽器のメロディ。暖かそうに赤々と燃える炎。女たちがテントに映り影絵のように現実感を失わせる。
あっという間に陽は落ちて、温度を溜め込む水分の少ないこの地は急激に冷え込んできていた。だが男は寒さすら忘れてゲリラたちをじっと睨むように注視し続ける。
「これでは不足か? それとも政府に盾突く反政府武装集団も刑吏と監視カメラの見張りが怖いのか? 捕まれば拷問されて処刑だからな」
あざとい手とは思ったが煽ってみた。逃してはならない。幸い挑発に乗ってきた。
「冗談言って貰っちゃ困る、そんなものは今更だ」
「けれど不用意に危険に足を突っ込んで犬死にもごめんだからな」
ここでもかと落胆しかけた男を次の言葉が救った。
「でもあんたは運がいい」
そう一人が言い、砂の匂いを嗅ぐようにした。空を見上げてゆっくりと頷く。
「風が変わった、砂嵐が来る。紛れてヘリと人員を出そう」
「有難い、感謝する」
◇◇◇◇
――砂の大地での葬送はグループ全員で執り行った。取り戻した母と妹の一生を砂掻きと水汲みで終えた荒れた手に男はみずみずしい果実を握らせた。
葬儀が終わっても男は自分の村に帰らなかった。ゲリラの一人に訊かれたからだ。
「あんた、葬式の段取りはよくよく考えていたみたいだが、どうしてお袋さんと妹さんがまだ生きてる間に俺たちの元に走ってこなかったんだい?」
と。それまでは何もかもを諦めて『こんなものだ』と思い込んできた男は生まれて初めて手にした銃を抱き、まつろわぬ民の最後尾に加わった。
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