紫の鳥(前後編)

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<前編> 森の外れにある大きな木の洞穴に、とても美しい鳥が住んでいました。 一体に、雌の鳥というのは地味な姿をしているのに、その鳥ときたら他のどんな雄鳥達をも凌ぐ程、それはそれは美しく、鮮やかな赤い羽を持っているのでした。 嘴は漆黒の闇のように黒くて、頭にはそれとお揃いの黒い冠のような飾り羽を付けています。 その姿は気高くて、まるで夜の女王のようでした。 この島のどこにも、彼女と同じ種類の鳥はいませんでした。 「私はあなた達とは違うのよ」 ツンとすましてそう言っても、誰も彼女に腹を立てる者はいません。 事実、島にたった一羽しかいない彼女の存在は、何か神秘的で、近寄り難い印象を皆に与えたのです。 「あれは神様がお創りになったのだ」 「神様の思し召しで、この世に遣わされた方なのだ。迂闊に近付いてはいけない」 誰もがそう思って彼女を恭しく奉り、話し掛けようとはしませんでした。 彼女が飛ぶところを見た者も、誰一人としていませんでした。 彼女はいつも木の洞穴に閉じ籠って一人きりでした。 「別に、無理して表に出ることはないわ。外に出ると羽が汚れるし…飛ぶのは疲れるもの」 食事は他の鳥達が毎日運んで来てくれます。 新鮮な木の実に柔らかいパン、綺麗に澄んだ美味しい水―。 彼女は他の鳥達のように生きた虫や魚を食べることは決してありませんでした。 けれどそれも、”尊いお方だから”という鳥達の感慨を一層深いものにしていました。 或る晩、一羽の若い雄鳥が道に迷って彷徨っていました。 それはどこにでもいるような青い鳥でしたが、鋭い光を湛えた瞳は意志の強さを表し、正義感の強さを象徴しているようでもありました。 旅の途中で道に迷ってこの島に辿り着いたという青年は、洞穴の前で羽ばたきし乍ら言いました。 「今夜一晩だけ、ここに泊めていただけませんか?」 外は激しい嵐で、青年は大きな雨粒に打たれて濡れそぼっています。 時折り突風に吹き飛ばされそうになるのを必死に堪え、青年は凛とした表情で赤い鳥を見つめています。 赤い鳥はその真っ直ぐな視線に耐えかね、思わず目を逸らしました。 赤い鳥は恐かったのです。 彼のその眼差しに、何かを見透かされそうで。 本当の自分を、暴かれてしまいそうで。 「ここは、私一人の棲みかなので…」 ”若い男の人をお泊めすることはできません”という言外の意味を汲み取ったのか、青年は微かに頬を赤らめて言いました。 「いや…これは失礼な事を申しあげました。若い女の方の一人暮らしとは知らずに……。どうかお許し下さい」 そう言って謝った時、その僅かの虚をついて、強い突風が青年の体を吹き上げました。 「危ない…っ」 青い鳥を助けようと思わず身を乗り出した赤い鳥は、青年もろとも激しい風にさらわれ、空中に投げ出されました。 煙るような雨の中、クルクルと風に回る二人の姿は一つに溶け合い、美しい紫の輪を描き乍ら、やがて地面に落下しました。 「大丈夫ですか!?」 自分の腕の中で力なく倒れている赤い鳥に、青い鳥は言いました。 けれど赤い鳥は何も言うことができませんでした。 こんなに間近で男の人の顔を見たのは初めてなのです。 それどころか、生まれた時からずっと一人ぼっちだった彼女は、誰の顔も声も身近に感じたことはなく、他の鳥の体の温かさなど、知る由も無かったのです。 俯いたまま自分の感情の揺れ動きに戸惑っている赤い鳥に、青い鳥は言いました。 「僕はどこか他に泊まる所を探すから、あなたは自分の棲みかに戻るといい。僕が隣りを飛んで風を除けましょう」 促すように手を差し出す青い鳥を、赤い鳥は困惑した表情で見つめ返しました。 けれどまたすぐに俯いて、そのまま動こうとはしませんでした。 「どうしたんですか?」 「…私……」 ”私はあなた達とは違うのよ。特別なのよ。こんな風雨の中を、私に自力で飛んで帰れというの?” いつものように、そう言えばいいことでした。 けれど何故か、この青い鳥にそんな高飛車な事を言うのは躊躇われました。 訝し気に赤い鳥を見つめる青い鳥に、赤い鳥は言いました。 消え入るような声で、弱々しく。 「私……飛べないの……」 青い鳥は一瞬驚いたようでしたが、ポツポツと赤い鳥が話し出すのを黙って聞いていました。 自分が卵から孵った時には、既に母親は死んでいた事。 他の卵は一つも孵化しなかった事。 だから誰も飛び方を教えてくれる者がいなかった事。 島の他の鳥達に発見されてからは神の遣いとして崇められ、みんなが貢ぎ物を捧げてくれたので、飛ぶ必要も無かった事―。 青い鳥は長いこと黙っていましたが、やがて呟くようにポツリと尋ねました。 「それで、君は寂しくなかったの…? ずっと一人ぼっちで…?」 それは、さっき迄の他人行儀な物言いとは打って変わって優しい、けれど憐れみに満ちた声でもありました。 そして赤い鳥は、そんなふうに他人から憐れみを受けるのは、とても惨めで耐え難い思いがしたのです。 ましてや、この真っ直ぐな目をした青い鳥の前では尚のこと。 傷付いた赤い鳥は、冷たく言い放ちました。 「寂しいなんて思わないわ。何故そんなふうに思う必要があるの? 私の家はとても居心地がいいし、他の鳥達もちやほやしてくれる。食べ物も何もかも、みんなが運んで来てくれる。何も好き好んで、塵や埃に塗れて表を飛び回らなくてもいいのよ」 ”私は特別なの。ちやほやされて、一人だけ特別扱いされるのが大好きなの” 自分に言い聞かせるように、何度も何度もそう繰り返します。 けれど、その美しい躰は今は土砂に叩きつけられて汚れ、尚も打ち付ける雨は、最後の強がりまでをも引き剥がそうとするかのように、彼女の羽毛から光沢を奪っていきます。 それでも必死で同じ言葉を繰り返す赤い鳥に、青い鳥は諦めたように一つ、大きな溜め息をつきました。 「ここで待ってて。誰か助けを呼んで来るから」 そう言い置くと、雨の当たらない木の繁みに赤い鳥を避難させ、青い鳥は激しい嵐の中へと再び飛び出して行きました。 赤い鳥は数羽の逞しい鳥達に、繻子の織物に乗せられて恭しく抱えられ、無事洞穴の中に戻されました。 若い雌鳥達に躰を拭かれ乍ら、けれど赤い鳥は他の誰とも違う、先程の青い鳥の温もりを思っていました。 洞穴から落下する時の、まるで一羽の紫の鳥になったかのような、青い鳥との一体感を。 青い鳥の逞しさを。そして優しさを。 しかしその一方で、青い鳥はみんなから責められていました。 洞穴の木の繁み、さっき迄赤い鳥が身を隠していた場所で僅かに雨粒を受けて、ただ一人何も言わず、みんなの非難を浴びています。 赤い鳥は木の上からそれを眺め乍ら、身を切られるような思いでした。 ”その人を責めないで” ”彼は悪くないのよ” けれどもそれは声にはなりませんでした。 やがて彼は他の鳥達に追い立てられるように、空へと舞い上がりました。 そして羽ばたきし乍ら振り返って赤い鳥を見ると、悲しそうな目をして、激しい風雨が吹きすさぶ中、島の外へと飛び立って行きました。 その、青い鳥の諦めたような最後の一瞥は、赤い鳥の心に深く刻み込まれました。 けれどそれでも、、赤い鳥はこの洞穴から外に出られない、出てはいけない事情があったのです。 ”私は一生、一人で孤独に生きなければならない” 赤い鳥は心の中で、そう自分に言い聞かせました。 <後編> 「ご体調でも優れないのですか?」 いつものように食事を運んできた食事係の雌鳥が言いました。 「最近、お食事もあまり召し上がっていらっしゃらないご様子ですが…」 青い鳥が去って行ってから、赤い鳥は俄かに食欲を失い、痩せ過ぎたその体は美しい羽根の光沢も鈍らせ、顔色も悪く、明らかにやつれた様相を呈していました。 ”私なんて、死んでしまえばいいのよ…” ただの恋煩いというには、あまりにも重く暗鬱な思いに、赤い鳥は襲われていました。 「なんでもないわ。心配しないで」と食事係を下がらせると、赤い鳥は食事も摂らずに床に伏せました。 ”このまま死んでしまえたら、どんなにか楽だろう…” そう思ったその時、他の鳥達とは違った羽ばたきが聞こえ、赤い鳥は身を起こしました。 其処に居たのは、あの、青い鳥でした。 「どうして此処に…?」 赤い鳥は尋ねました。 一度は旅立った筈の青い鳥でしたが、赤い鳥の事がどうしても気になって、戻って来たというのです。 「僕は南の方に行く。特に当ては無いけど、『自分の居場所』だと思える場所を探して。君も一緒に行かないか?」 「自分の居場所?」 そう尋ねる赤い鳥に、青い鳥は言いました。 「僕も君と同じように、物心ついた時には僕と同じ種の鳥がいなかった。僕の家族や仲間達は他の鳥達から迫害されていた。そして滅ぼされた。僕も幼かったからよくは分からないが、その頃僕の住んでいた島では大きな災害があったらしい。その原因を、他の鳥達とは交流を持たなかった僕の種族に、責任転嫁されたらしい。命からがら逃げ出して来た僕は、こうして旅を続けてる。いつ辿り着けるかも分からない旅だ。でも必ずある筈なんだ。僕が落ち着ける場所が」 「そんな……」 この青い鳥も一人ぼっちだなんて。 そして神のように崇められている自分と違って、迫害から逃れて来たなんて。 ”この青い鳥と出逢えたのは運命かもしれない…けれど…” 「君はこの島の鳥達に、本当は恩を感じているんじゃないのか?」 何も言えず押し黙ったままの赤い鳥に、青い鳥は言いました。 「本当は此処を出て自由になりたいのに、他の鳥達に『神の遣い』とされてしまった事で、身動きが取れなくなっているんじゃないの?」 「それは…」 確かにそれもありました。 今迄他の鳥達が献身してくれたお陰で、赤い鳥は何不自由なく生きてこれたのです。 「自分は『神の遣い』でなければならないなんて、思う必要は無いんだ。君がいなくなっても、この島の鳥達が滅びる訳でもない。ただ崇拝物を失うだけだ。また別の何かを、崇拝物として探すだろう。みんな、そんなものだよ」 でも… 「でも私、飛べないのよ…言ったでしょう…?」 普通の鳥のように当たり前に飛ぶ事すら出来ない自分が、どうしてこの旅慣れた青い鳥と一緒に、この島を出る事が出来るというのでしょう。 赤い鳥には不安と絶望しかありませんでした。 「君は飛ぼうとしてないだけだ。この洞穴に籠って、この島に捕えられて―。飛ぼうと思えば飛べる筈なのに」 この島に捕われている―けれどそれは、赤い鳥自らが選んだ事でした。 「いい加減にしてっ」 必死に説得する青い鳥に、赤い鳥は強く冷たく言い放ちました。 「勝手に決めつけないで。そんなのはあなたの思い込みよ。言ったでしょ。私はちやほやされるのが好きなんだって。大体、行く当ても無いなんて、そんな旅に、どうして私が付き合わなきゃならないのよ!?あなたはただ、仲間が欲しいだけでしょう!? 旅の途中で一人で野垂れ死ぬのは勝手だけど、私まで道連れにする気なの!?」 なんて酷い事を言うのだろう。自分でもそう思いました。 こんなにキツい事を言うなんて、なんて嫌な女なのだろうと。 けれどその言葉は止まりませんでした。 「そんな危険な旅に出るのなんて、真っ平御免よっ。此処に居れば、飛べなくても一生安全に、幸せに暮らせるのに」 「―幸せ? それが本当に、君の幸せなのか…?」 「そうよ。私はこの島で、『神の遣い』としてずっと生きていくの。それが私の幸せよ」 私は『神の遣い』なんかじゃない。そんな神々しいものじゃない。寧ろ……。 内心ではそう思い乍らも、毅然とした態度で言う赤い鳥に、青い鳥はもうそれ以上、何も言う事が出来ませんでした。 「…そうか、分かったよ。済まなかった。僕に君の幸せが何かなんて分かる筈も無いのに、勝手な想像を押し付けて」 そう言うと青い鳥は赤い鳥に背を向けて、「僕は一人で行く。もう二度と此処には戻って来ないよ。本当に済まなかった」 そう言って翼を広げ、すっかり陽も沈んだ星も無い闇の中へと、呑み込まれるように消えてゆきました。 ”行かないで” 赤い鳥は心の中で叫びました。 強く、激しく―。 しかしその声は、心の中で薄い膜に包まれ、呆気なく消えてしまいました。 ”私に一体、何を言う資格があるのだろう…” 赤い鳥は過去に犯した罪を思い、自分を戒めました。 ”私には幸せになる資格なんて無い”と。 赤い鳥は恐かったのです。 飛べない自分が当ても無い旅に出る事よりも、危険な目に遭うかもしれない事よりも、本当の事を、を告白して、青い鳥に嫌悪される事が。 それは『嫌な女』と思われるよりも、ずっとずっと恐い事でした。 赤い鳥には、誰にも言えない秘密があったのです。 ずっと青い鳥に言わなかった、言えなかった事―自分が孵化してから美しい羽毛が生え揃う迄の間、他の鳥達に発見される迄の醜い姿だった期間、食べる物も無く、傍らにあった母親の死骸と、半分雛の形になりかけていた卵を喰らって生きていた事を思い、自分を責めました。 自分は汚い、自分は醜い、と。 彼女とて、母親の死骸や、これから生まれようとする妹達を食べる事など、決してしたくはありませんでした。 けれど、ひもじくてひもじくて、飛ぶ事もできない雛鳥だった彼女には、そうする事以外、生きる道は無かったのです。 それでもその罪悪感は、赤い鳥を長いことずっと苦しめていました。 誰よりも美しい姿態を持ち乍ら、彼女は内心では自分を、誰よりも醜く悍ましいものと責め苛んでいたのです。 赤い鳥はその晩も、たった一人、暗い洞穴の中で眠りました。 彼女が肉親を喰らった、その場所で。 彼女を圧倒し、窒息させてしまう程の、重く苦しい罪の中で。 その夜、漸く深い眠りに落ちようとした頃、赤い鳥は何かキラキラした物が瞼の奥で光るのを感じて目を覚ましました。 見ると目の前に、眩い程の青白い光に包まれた亡き母鳥と、美しい娘が二羽飛び交っています。 彼女達は二人とも、自分と同じように鮮やかな赤い羽をしていたので、赤い鳥は直に、それがあの時自分が食べてしまった妹達なのだと気付きました。 「ごめんなさい…ごめんなさい……」 怯えた声でひたすら謝る赤い鳥に、母鳥達は言いました。 ”おまえを責める為に来たんじゃない”と。 ”私達は、今は別の世界で幸せに暮らしている。だからおまえも、もう自分を罪の意識から解放してあげなさい”と。 ”あの時同じ状況に置かれたら、誰でもきっと同じ事をしていた” ”だからもう、これ以上自分を責めなくてもいいのよ” ”私達の事は忘れて幸せになりなさい” ”幸せになってもいいのよ” そう繰り返すその声はとても慈悲深く、何もかもを許すように優しい余韻を残して消えてゆきました。 と同時に、辺りは次第に闇に包まれ、三人の姿も青白い光と共に闇に溶けてゆきました。 果たしてこれは、罪の重さから逃れたいがために見た、都合のいい夢だったのでしょうか。 けれどもそれが夢でないことに、彼女達が飛び交っていた場所には、微かに燐光を放つ赤い砂粒がパラパラと、僅かに残されていたのです。 砂粒は、まるで三人の言葉を囁くように、キラキラと優しく光っています。 それを見た赤い鳥は、ふと自分の体が軽くなったような気がして、恐る恐る羽を伸ばしてみました。 今迄一度も広げたことのない翼は思いの外優雅に、そして心地よく澄んだ空気を攪拌しました。 その時、赤い鳥は初めて、自分の心が全ての呪縛から解き放たれ、自由になるのを感じました。 ”全てを知っても、あの青い鳥は、私を嫌いにならずにいてくれるだろうか…?” 不安はありました。 けれど、もう赤い鳥には迷いは一切無くなりました。 翌日、いつものようにお使いの者が朝食を届けに来ると、洞穴の中に赤い鳥の姿はありませんでした。 自由を手に入れた赤い鳥は、きっとあの青い鳥を追いかけて、南の遠い空の果てへと飛び立っていったのでしょう。 必ずまた、会えると信じて―。
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