本編

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 男を相手に美人と評する事が、一般的なのか否かを、槙永は知らない。けれど風貌をそのように、嘗てゲイバーで表現された事があり、その記憶が脳裏を過ぎった。容姿を揶揄するように褒められる事は、嫌な記憶を想起させられるので、槙永にとって嬉しい事では無かった。もしもこの安寧の地でまで、己の指向が露見したならば。そう考えると指先が震えそうになる。  結果、無言で踵を返し、駅員室まで戻った。その後になって、きっと感じが悪くなってしまっただろうなと後悔したが、会話をする恐怖の方が勝った以上、どうにも出来ない。 「槙永さん? どうかしました?」 「別に」  淡々と澤木に対して答えながら、槙永はフキにキャットフードを与えた。食べ始めた猫をじっと眺めながら、なんとか内心を落ち着けようと努力する。きっと青年客にとっては特に意味の無い雑談だったのだろうと理性では分かったから、槙永は臆病な己の内心を呪わずにはいられなかった。  その後澤木が改札と始発の見送りを行う間、昨日の引継ぎ資料を閲覧しつつ、槙永は何度も溜息を押し殺した。普段同僚の澤木と田辺としか話さない分、ちょっとした雑談でも心が乱される。  本日の泊まり勤務の田辺が顔を出したのは、午前七時の事だった。既に澤木は退勤後だったので、駅員室で二人と一匹という状態だ。泊まり勤務は午前七時開始で、仮眠を挟んでから、翌朝の七時までとなる。  初老の田辺は、頬の皴を指で撫でながら、穏やかな微笑を浮かべていた。あと数年で定年退職するそうだ。  電車は一日に数本と、時折イベントで臨時の運行があるだけなので、始発後の数時間は特に作業が無い。この空き時間で、駅構内の清掃等を行うので、率先して槙永は動いた。片方は電話番として、駅員室に残る事が多い。  花壇に水をあげながら、今日は少し気温が下がったなと考える。  その後は窓を拭き、床を清掃し、昼食に備えた。田辺は駅長として、既に深水町に骨を埋める覚悟との事で、この土地の空き家を購入し、奥さんと暮らしている。愛妻弁当を必ず持参する田辺は、いつも多めにおかずを持ってきて、簡単におにぎりを持ってくるだけの槙永にお裾分けをしてくれる。 「槙永くんは、背は高いのに、少々やせ型だねぇ」  百七十六センチの槙永より、田辺は十センチは背が低い。だが胴回りは、倍はあるだろう。一見すると福の神のような体格だ。
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