本編

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「ちゃんと食べないとダメだよ。体力は何ごとにも必要だ」  目元の皴を深くしながら、重箱の一段を、槙永の前に田辺が置いた。中には色とりどりの卵焼きや唐揚げが入っている。田辺の妻は料理上手だ。 「そうそう。今年もサツマイモが沢山採れたんだ。昨日ね、息子にも宅配便で送ったんだが、槙永くんも少し貰ってくれない?」 「いつもご馳走様です」  そんな話をしながら過ごし、終電である五時二十分発着の電車を迎えるまで働いた。五時半までが日勤のシフトではあるが、多くの場合はその後残業をする。改札に立ちながら、深水駅からの乗車客がゼロである事を槙永は確認する。最終の電車で戻ってくる人間も、いつもほとんどいない。それでも電車は毎日発着する。  槙永はホームへと移動した。この日最終電車から降りてきた客は、一名だった。 「あ」  すると降車客が声を出した。つられて見れば、それは朝冗談を言った青年客だった。フワフワの少し癖がある髪を、照れくさそうに搔きながら、青年は微苦笑した。 「朝は気を悪くさせたか?」 「……いえ」 「そうか? それなら良かった。ずっと気になっていたんだよ。今日の泊まりは、田辺さん?」 「個人情報はお答えできません」 「真面目だな」  早く会話を打ち切りたくなって、会釈してから槙永は、車掌と合流した。そして電車内の点検と簡単な清掃を手伝った後、乗車客が一人もいない終電がホームから去っていくのを見送った。  そして駅構内へと戻り、券売機の電源を落とす。これで本日の仕事は終了だ。駅のシャッターを閉めるのは、泊まり勤務の人間の作業である。そう考えながら駅員室へと戻り、槙永は思わず息を呑んだ。駅員用の出入口の扉が開いている。その先の外には、しゃがんでフキを撫でている先程の青年の姿があった。部外者立ち入り禁止の駅員室だが、ギリギリの所で中には入っていない。見守っている駅長の田辺も笑顔だ。 「ああ、槙永くん。そうだ、紹介するよ」 「……はい」 「こちらは、青辻泰孝くんと言ってね、高名な写真家さんなんだ」  それを聞いて、槙永は硬直した。するとフキから手を放して、青年が立ち上がった。槙永よりも長身で、百八十センチ台半ばくらいの背丈だ。肩幅も広く胸板も厚い。 「高名なんて恐縮ですよ、田辺さん」 「でも、海外でまで個展をしたりしているというのは凄いよ」
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