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 放課後、保健室に立ち寄るのは、転んだ少年に肩を貸した4年3組の保健委員。  服装はTシャツにハーフパンツ、髪型は短髪で、さして特徴のない少年だ。  コンコン、と軽くノックして、保健室の引き戸を開ける。 「先生、今回もありがとうございました」少年は、回転式の丸椅子に腰掛ける。 「うん。どうだった?」机に向かって書類作業をしていた須藤は、手を止めると、保健委員の方に上半身を向けた。 「おかげさまで、今回も一件落着です」 「まさか君が、現場を目撃しちゃうとはね」 「僕が見たのは、落書きされたイラストを慌てて隠すイナミくんの姿ですよ。落書きの現場を目撃したわけじゃありません。犯人は明白でしたが」少年は(よど)みなく、すらすらと話す。 「彼は結局、イナミくんに謝ったのかな?」 「ええ、そのようです。だいぶ勇気が必要だったと思いますが、逃げずに謝ったみたいですね。なにせ、ごく初期のイジメのような構図でしたから。ちょっとしたからかいが日常的に行われて、彼にならちょっとひどいこと言っても平気だろうと、そんな空気が日に日に強まっていました」 「イナミくん、許してあげたんだ」 「周りの空気に流されて、どこかに罪悪感があったのかもしれませんね。それに、イナミくんに謝罪した後の彼は、生まれ変わったように真剣に絵を描いていますよ。傍目からも心を入れ替えたのがわかります」  須藤は小学校の養護教諭として、日々たくさんの生徒と接している。だが、目の前のどこにでもいそうな少年は、明らかに他の生徒とは異なっていた。自分が小学生の頃、こんなに俯瞰的に物事を眺めていただろうか? この違和感には未だに慣れないが、平静を装いつつ会話を続ける。 「これでまた、4年3組の平和が守られたわけだね」 「はい。もし彼がきちんと謝らずに逃げるような卑劣感だったり、イナミくんが謝罪を受け入れず、徒党を組んで彼を排除しようとしたなら、相応の対処を行わなければいけませんでしたので、その必要がなくて心底ホッとしました」 「相応の対処って、君が言うと物騒だなぁ」 「それにしても、ただの紙が催眠術のような効果を発揮するなんて、未だに信じられません」 「似たようなものにサブリミナルがあるでしょ。目から入る情報は怖いんだよ。人によってかかりやすさは違うけど。今回の彼は、かかりやすい方だったな。根は真面目で素直な子だから」 「どういう原理だったんですか?」 「まぁ簡単に言うと、自己肯定感を高めた。『どうせ自分はうまくいかない』って思い込みは、けっこうな呪いなんだよ。彼の場合はまず、頭の中にあふれていたイナミくんへのコンプレックスに決着を付けたんでしょ。主体的にというよりは、無意識で。怖い夢でも見たかな」 「生徒で実験しているなんて、公になったらタダじゃ済まないでしょうね。彼に渡した紙は未回収ですよね? 生徒の手元に証拠が残るやり方は、そろそろ改めたほうが良いのでは」 すると須藤は、吐き捨てるように言う。「あの紙を見ただけで効果を理解できる人間なんて、どうせいないから。あの研究が正当に評価されていれば、私は今頃、こんなところでくすぶっていないのでね」 「そんな、保健の先生がいなければ皆困りますよ。職業に貴賎なしとも言うじゃありませんか。……って、慰めになっています?」  小首をかしげる動作も、計算尽くかもしれない。 「きみ、ほんとに小学4年生だよね?」 「はい。クラスの平和を守りたいだけの小学4年生です」セリフも笑顔も至って健全なのに、須藤の本能はただならぬ何かを感じ取って、ざわついた。 「ちなみに、クラスだけじゃなくて、もっともっとたくさんの人が待っているので」 「あーあ、こんな子、一体どんな大人になるんだろ」緊張から来るストレスで、思わずポロシャツの胸ポケットに入れたタバコに右手を伸ばそうとして、自重する。 「それでは、僕はそろそろ失礼しますね。いくら保健委員とはいえ、先生と2人きりでいる姿を誰かに見られるのは、あまり望ましくありませんから」  少年が立ち上がると、丸椅子がわずかに軋んだ。 「はいはい。また問題があれば、いつでもどうぞ。そういえば、彼は『何でも願いがかなう薬』って呼んでたけど、それは問題ないの?」 「ええ。いくつかのスタイルで噂を流したところ、それが一番食い付きが良かったんですよね」少年は、引き戸に手をかけたところで振り返る。 「それに実際のところ、今回のことは彼にはいい薬になったでしょう?」  少年の笑顔は、引き戸の向こうに消えた。
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