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翌日の決勝は予選を通過した十二人で競われる。ベストのタイムは琉太が三分四十二秒五八で上から二番目。周は三分四十五秒一三で七番目。ちなみに周のタイムは高校三年の秋に出したものだ。
「トップのタイムの選手は、春先まで故障で走っていない。今の時点では実質お前が一番強い。」
朝食をとり終え、送迎の車に乗ろうとしていたところでコーチから声を掛けられた。
「狙ってはいきますが、いつもどおりの気持ちで走ります。」
唯一警戒するのは、周がどんなレースを仕掛けてくるか、ということだったが、それは二人とも口に出さなかった。
予選のスタートリストが発表されたとき、琉太は周が春先に出走した記録会でのタイムを検索している。分かったのは出走回数がわずかに二回であること、その二回目に三分五十秒〇二というタイムを叩き出し、関東インカレの参加標準を突破していること。ほぼ二年間全くレースに出ていないにもかかわらず、である。琉太は改めて周の潜在能力の高さを感じざるを得なかった。
メインスタンド下の控室でウォーミングアップを行いフィールドに出ると、周がジョグを終えたところだった。声をかけようと思って近づいたが、こちらを見ようともしない。琉太の存在に気付いているとは思うのだが、あえて無視している風だった。
それは今までに無いことだった。それだけ、周はこのレースに賭けているのだと、琉太は感じた。
前日の夜、周から琉太にメールが届いていた。
「陸上を辞めてしまってもいいかな、と何度も思った。ほとんど辞めるつもりでいたけど、お前に一度も負けないまま辞めるのは違うと、そう思った。それでここまで続けてきた。続けてこれた。」
それに対し、琉太は短いメールを送った。
「お互い、勝つために明日は走ろう。」
競技者としての死に場所を探して走るなよ、と琉太は思った。
レースの時間はあっという間にやって来た。気持ちを落ち着かせることが出来ないままスタートラインに立ってしまっているような感覚だった。あまり良い兆候ではないな、と琉太は感じ、少し離れた位置にいる周の姿を見た。周は一瞬だけ琉太の姿を見たが、すぐに視線をそらし自分のレースだけに集中するように目を閉じた。
しっかりしろよ、俺はこのために陸上を続けてきたんだから…。
周がそう伝えてきたのが分かった。琉太は、そうだな、と返す。
すると気持ちが平静になり、鳴り響く歓声が遠くなった。自分達の周りにだけ静けさが訪れ、これで舞台は整った、と何処からともなく声が届いたような気がした。
号砲に、十二人の選手が飛び出す。ペースは遅い。まるでジョグのようなスピードで全員がけん制しあい、誰も飛び出そうとしない。
これは自己ベストを出せるレースではないと琉太は感じた。ならば勝負に徹するレースにするほかは無い。
琉太は集団の中ほどに位置し、レースのプランを組み立てる。アウトに位置をとれたのは悪くない。インでポケットにされたらレースが動いた時に反応できないからだ。一方、周はというと最後尾に付け、全員の動きにアンテナを張っている。暴走に近いレースを展開した予選とは明らかに違う、慎重な走りの中での勝負を挑もうとしている。
一周目、集団からは誰一人飛び出さない。大集団のまま二周目も進み、バックストレートで細かい先頭の交代があったものの、ほぼ同じペースのまま三周目に入った。琉太は先頭を走る二人の選手の背後まで上がり、あるタイミングで仕掛けることを考えていた。周はといえば、先ほどまで琉太がいた集団のほぼ真ん中のアウトの位置に付け、大外からのスパートを虎視眈々と狙っているかのようだ。
三周目の第三コーナー、九百メートル付近で先頭のペースが上がり、集団が縦長になる。スパートというほどのペースアップでは無かったが、それでも集団は次第に二つに分かれ、琉太も周も前方の集団に付く。
残り一周、千百メートルの地点の手前、係員が打鍾のために腕を振り上げようとしたその瞬間、琉太は先頭に出た。そのまま後続を引き離そうとペースを上げる。先頭を取られた二人の選手が慌てて琉太に付こうとする。これでいい、今の対応で二人の選手は少しばかり体力を使ったはずだ。この差がラストでの勝負に影響する。バックストレートに入ったところで琉太は最初のスパートをかけた。二人のうち一人は付いて来られず後方に下がるのが分かった。もう一人は第三コーナー出口まで背後に付けていたが、そこからもう一段スパートをかけると、数メートルの差が出来た。
いける、体力もまだ十分残っている…。
第四コーナーを周るとゴールラインが視界に入ってくる。あとはそこを目指して全力で駆け抜けるだけだ。目の前には誰もいない。それまで聞こえていなかった歓声が少しだけ耳に戻ってくるのを感じ、琉太は最後の三段目のロケットの切り離しにかかった。
その存在を、一瞬忘れていた。
大外からやってきた影が琉太の背中に迫り、やがてすぐ横に姿を現した。
ほんの僅かな時間でもそいつのことを忘れていたことを、後悔した。だが、まだ勝負できる。三回目のスパートを繰り出すのはまさにこのタイミングだ。
琉太はギアを入れ直す。すると今までに経験したことの無いスピードが出るのを感じた。それを凌駕しようとアウトから周が抜け出す。琉太の脚にさらに力が生まれ、レーンを蹴って前方に体を運んでくれるのを感じた。ゴールラインが目の前に迫る。隣にいる周の体が僅かに後方に流れるのが見えた。
無意識のうちに、その言葉が脳裏に浮かんでいた。
戻って来てくれて、ありがとな…。
上半身をゴールラインに押し込む。バランスを崩して前のめりになりながら、どうにか持ちこたえる。そのままの勢いで十数メートル前方に進んだところで脚に力が入らなくなり、グラウンドに倒れ込む。
仰向けに倒れた視界に、雲が流れるのが映った。
駆け寄ってきたチームメイトに引き起こされ、頭と背中を叩かれ手荒な祝福を受けた。電光掲示板に視線を移すと、いちばん上に琉太の名前が表示されているのが見えた。
チームメイトと喜びを分かちあった後、琉太は周の姿を探した。すると数メートル先で同じように仰向けに倒れ込んだままの姿が目に入った。
琉太は周に駆け寄る。気づいた周が上半身を起こし、握手を求めてくる。それを振り切って琉太は周に言葉をかけた。
「トレーナーなら間に合っているからな…。」
対して周が小さく笑って返す。
「そうか、残念だな…。」
それを聞いて、琉太はその場を後にする。
背中で周が立ち上がる気配を感じた。
そうだ、それでいい…。
琉太は後ろを振り返ることなく、空を見上げる。
雲に隠れていた初夏の太陽が、ようやく姿を現したところだった。
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