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スタートリストを見た瞬間、その名前が目に飛び込んできた。
同時に、あいつがこちらを見て屈託のない笑顔を送ってくる様子が脳裏に浮かぶ。
「久しぶりだな、お手柔らかに。」
多分そんな台詞を吐くのだろう。それに対して自分は不機嫌を装い、短く「ああ」とだけ答える。
そのような図が鮮明な映像となって、初夏のフィールドに浮かんでは消えた。
「センゴで負けたら俺はお前に勝つところが無い。そうなったら引退してお前の専属トレーナーにでもなるよ。」
四年前のインターハイ北信越予選男子千五百メートル決勝。一位通過を決めたあいつ――七澤周が、三位通過となった市木琉太にかけた言葉だ。
うるせえよ…。
負けた悔しさから、そう返したはずだ。それに対して周は笑いながら言葉を続ける。
「お前は三千だって五千だって記録が出せる。早ければ再来年の正月には箱根を走っていたっておかしくない。」
関東の複数の大学からスカウトされ、推薦入試の結果次第とはいえ、ほぼ進学が決まっていた。周の言うように、駅伝が強い大学だ。
「中距離専門はなかなか厳しいよ。何とか進路が決まって続けられることにはなったけど。」
それは良かった、と本心を隠し、ぶっきらぼうに答える。
「その前にもう一度勝負しよう。次は全国で。」
そして言葉どおり、周は優勝を決め、琉太は五位に終わった。
「大学でも何度も対戦すると思っていたんですが、これが初めてというのは…。まあ、彼も苦労しているという話は聞いていたので、ここで戻って来てくれたのは、純粋にうれしいです。」
関東インカレの千五百メートル予選の前日、陸上担当のスポーツライターの質問に、琉太はそう答えた。
“高校時代、同じ長野県内でライバルだった七澤選手と同じ組で対戦する今の気持ちは?”
その後、今大会の目標を聞かれた。
「自分としては優勝と自己ベストの更新を目指しています。関カレのこの種目ではまだ表彰台にも登ったことが無いので。学生ラストですし、狙っていきたいです。」
千五百メートルは一年生の時に出場し決勝に進んだものの惜しくも入賞圏外の九位。二年次には五千メートルに出場し三位、三年ではハーフマラソンで優勝を飾っている。
本当にオールラウンドな活躍ですね、とライターに問われ、
「それが自分の強みですから。」
と答える。
予選は二組に分かれ、各組五位までに入れば決勝進出。決勝レースの出場者は十二人だから、残り二人は六位以下でタイムの良い者が通過となる。琉太と周が出場するのは第二組。振り分けられたメンバーを見渡すと、それなりのスピードレースになることが予想された。
バックストレートの入口にあたる第二コーナーをスタート地点として、ゴールまで四百メートルトラック三周と四分の三。オープンスタートのラインに計十八人の選手が並び、号砲と共に飛び出した。
しばしば競輪に例えられるように、スピードだけではなく駆け引きもレースの重要な要素となる千五百メートルでは、展開によってハイペースになることもあれば、その逆に選手同士がけん制しあって極端なスローペースになることもある。この日のレースはややハイペースといった様子で、琉太は先頭集団を形成する五人の選手の後ろに付け、後半の勝負どころで前に出る作戦をとった。予選はタイムよりも着順にしっかり入ること。同組で走る他の選手の持ちタイムや自身のコンディションを考えても、五位以内に入ることは難しくないと感じた。
二周目に入り、このまま千メートルあたりまで行こうと考えていた時、外側から猛烈なペースで迫ってくる影があった。それは琉太を一瞬で抜き去り、先頭集団の五人に追いつくと、並走することすらなく一気に前に出た。
周だった。
思った以上に走れているな…。琉太がそう思って周に視線をやったその刹那、周はさらにペースを上げ、五人の集団をあっという間に引き離す。三メートル、五メートル…。周の背中がどんどん遠ざかる。おいおい、これは予選だぞ…。
定石からは考えられない中盤を前にしての大逃げに、先頭集団を含むほとんどの選手が反応する。周はペースを緩めない。それを追ってまず先頭の五人がばらけ、さらには琉太の後ろについていた二人の選手が予想外の展開に慌てたのか、同時にアウトに出ようとして接触する。さらに後方からロングスパートをかける者もいて、大外から琉太を抜き去り、先頭集団から落ちてきた選手も拾って二位争いに割って入ろうとする。
レースは完全に壊れた。
その間にも周は悠々と先頭を走り、既に二位以下に十メートルほどの差をつけ独走している。
たぶん、あいつはそのままゴールまで行くだろう。大逃げをかました理由は全く分からないが、あいつなりの目算があってのことと感じた。ロングスパートをかけた選手はそのうち落ちてくる。先頭を走っていた五人も中盤で体力を使ったことでラストの余力を残せないはずだ。現在の順位は八位前後ながら、琉太は冷静に状況を分析し、残り一周になるまで今のポジションを維持するという判断を下した。
周は最後のストレートではさすがにペースが落ちたものの、結果的にこの組の一位で予選通過。琉太は残り四百メートルからペースを上げ、最終的には五人を抜いて二位に入り、目論見どおりの通過を果たした。タイムは琉太が三分四十九秒二二。周は三分四十六秒九八と、決勝でも見劣りしないようなタイムを叩き出した。
会場の電光掲示板に結果が表示されると同時に場内がどよめいたのが分かった。琉太は先にゴールした周の姿を探したが、声をかけてきたのは後方から姿を現した周の方だった。
周が握手を求めて手を差し出す。琉太は膝に手をつき、レース後の苦悶の表情のまま問いただした。
「どういうことだよ…。」
調子がいいのは分かった。それならば着順を確保するレースをすればよかったのだ。決勝に向けて少しでも体力を温存すれば良いのに、なぜ大逃げなど、レースを壊すような走りをしたのか。
「お前に負けるわけにいかなかったからだよ。」
こちらの問いかけの意図をいとも容易く汲んで答えてきた。言ったろ、センゴでお前に負けたら引退して専属トレーナーになるって…。
「だから引退したら決勝を走れないじゃないか。それは嫌だなって…。」
何か言い返そうと思ったが、息が切れ、脳に酸素が行かない状態では気の利いた台詞も思いつかない。黙っていると周がいつしか真顔になって言葉を続けた。
「どんなにリードしても、どれだけスパートをかけても、追いつかれるんじゃないか、そう思ったらこういう走りになった。今のお前はそれほど強いランナーなんだよ。」
名門大学のエースで、中距離からハーフマラソンまでハイレベルなタイムを叩き出す。卒業後は実業団の強豪チームへの入団が決まっている学生トップランナーの一人。そういう存在になれたのも、目の前のこの男に勝ちたいとの思いが、いちばんの理由だったのは間違いない。
「明日の決勝では奇策は使わない。高校の頃のようにお前との勝負を楽しみたい。待ってるよ。」
そう言い残すと、周は琉太に背を向け、右手を挙げて去っていった。
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