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〈過去①〉
埼玉県の北部に位置する鰓陸市は、程よい田舎具合と一応は整ったインフラが調和する、「まぁまぁ田舎で割と不便な地区もなくはないけど、それなりになら楽しく生活できますよ」という中途半端な市だ。
その鰓陸市の外れ、五月の夜闇の中、末広二重と明るい茶髪が魅力的な美少女──古川海里がコンビニの袋を片手に家路をたどっていた。
海里は地元の公立中学校に通う中学二年生だ。時刻は夜の九時半を過ぎている。しかし、こんな時間に一人で外を歩くのは危ないのではないか、という不安はない。海里の家は鰓陸市の中でも田舎な場所にあるし、今まで生きてきて変質者とか不審者といった類いの人間と遭遇したこともないからだ。
海里がコンビニを訪れた目的は、コンビニスイーツ(ティラミス)とホットスナック(フライドチキン)である。夕食後は自室にこもってミステリー小説を楽しんでいたのだが、この小説にティラミスとフライドチキンが登場してしまい、しかも食事描写には無駄に力が入っていて、更に不運なことにちょうどよく小腹も空いてきた頃合いであり、気がついたら猛烈にその二つが食べたくなっていたのだ。
あ、そうだ、ヘブン行こ──業界最大シェアを誇るコンビニエンスストアチェーンに思い至るまで時間は掛からなかった。
田舎らしさ全開の、人のいない舗道を歩いていると、少し先の横道からフラフラとした足取りで枯れ枝を連想させる細長いシルエットの人物が出てきた。
酔っぱらいかな?
そう思ったのも束の間、酔っぱらいに見えたその人物に見覚えがあることに気がついた。
たしか……御影大輔って名前だっけ?
御影は海里と同じ中学校の生徒で海里と同じく二年生だが、クラスは別だ。会話をしたことはない。本当にただ顔と名前を知っているだけの関係だ。
その、顔と名前しか知らない御影少年は、町の光に背を向けて暗い道へと進んでいった。その道の先には、精神病院の廃墟と国有地らしき山と企業の私有地らしき山林ぐらいしかない。
こんな時間にどうしたんだろ?
自分のことは棚に上げて首をひねる。
何か様子もおかしいし……。
御影の、まるで幽鬼のような茫とした雰囲気に不審感は増していく。
御影とは目算で三十メートルは離れている。街路灯が貧弱かつ疎らなせいか、はたまた彼の精神状態のせいか、向こうは海里がガン見していることには気づいていないようだった。こちらには一瞥すらくれずに歩いている。
──カァー、カァー、カァー。
カラスの鳴き声が御影の向かう先、深い闇の中から聞こえてきた。
──カァー、カァー、カァー。
鳴き声はやまない。
前はこんなにうるさくなかったのにどうしたんだろう? 知らない間に数を増やしたのかな。それとも不吉を知らせている、とか?
カラスが夜に鳴くのは不幸の前兆、などという話を聞いたことがあり、夜の静かな雰囲気も相まって、ついオカルトチックなことを考えてしまったが、
──そんなわけないか。
海里はすぐにそのバカバカしい考えを否定した。幽霊とか呪いとか、そんなものは信じていない。見たことないしありえないでしょ、と小さいころから思っている。したがって、見方によってはホラー的な状況と言えなくもない今の状況を怖いと感じることはないのだが、
「あ……」
不意にある可能性が頭をよぎり、ぞわりと心にさざ波が立った。
まさか──自殺!?
飛躍しすぎだろうか、と自らの直感を疑うも、しかし状況的にそう考えても矛盾らしい矛盾はないように思えた。
心に生じた波は不可抗力的に大きくなっていく。まだ春だというのに暑さを感じ、粘ついた汗がにじむ。
ちらりとコンビニの袋に視線を落とす。さっさと帰って欲望を解放したいところだけど、そうもいかなくなってしまった。
これに見て見ぬふりをして、来週辺りに残念なお知らせを伝える臨時全校集会なんかが開催されてしまってはしばらく立ち直れない。あの時、話しかけていれば、などというありきたりな後悔の仕方をする羽目になるのは確実だ──そんなのは嫌だ。すごく嫌。
海里は一つうなずくと、将来のためにこっそり練習していた尾行スキルを使って御影の後をつけはじめた。
海里の将来の夢は〈名探偵になること〉である。それも、小説やドラマに登場するような、殺人事件を颯爽と解決するタイプの、だ。
夢見がちだという自覚はある──非現実的だと思っている。しかし、なりたいのだから仕方がない。
それに、今それが役に立っているのだから結果オーライである。
とりあえずはバレないように尾行して、万が一本当に自殺する素振りを見せたら飛び出して止める。自殺なんてのはこちらの杞憂だった場合は、姿を見せずにおとなしくうちに帰る──変な勘違いをしたのを知られるのは何となく恥ずかしいからだ。
御影の背中を視界の中心に置きつつ海里は歩を進める。ふと、フライドチキンのスパイシーな香りが鼻腔をくすぐった。
お腹から、ぐぅ、と切ない音が聞こえた。
「……」
やっぱり帰ろうかな、とか、思ったりはしていない。していない。
「ちょっと待ったぁぁ!!」
かつてはにぎわっていた(?)であろう精神病院の抜け殻──廃病院に、海里の声が響き渡った。
手頃な鉄格子に紐を結びつけてそれらしい輪っかを作り、意を決したような硬い表情でその輪っかに首を通そうとしていた御影は、びくりと身を震わせた。振り向きながら、「だ、誰?」と懐中電灯をこちらに向けた。
「二年一組! 古川海里!」海里は怒気を込めて、しかし律義に質問に答えてやった。「あたしのことはいいの。そんなことより、君、何してんのさ!」
「い、いやこれは別に……」御影は尻すぼみに言った。どことなく、昨日ドラマで観た、本命彼女に浮気の証拠を突きつけられた彼氏に通ずる雰囲気があった。
「別にも何も明らかに自殺しようとしてんじゃん!」近辺には何もないので大声を出そうと咎められることはない。キレ放題叫び放題である。
ただシンプルに自殺に対して怒りを覚えていた。綺麗事がどうとか理屈くさくて小難しいことでは海里の心は抑えられない。だから、感じるままに爆発させているのだ。何で死のうとするんだよ、死ななくたっていいじゃんか、と。
「……」御影は口をつぐんでいる。
沈黙と静寂が廃墟を支配する──なんていう、中学二年生が好きそうなシチュエーションは、「黙ってないで何か言いなさいよ!」という、海里の情け容赦のない言葉ですぐに粉砕されてしまった。
御影はまたしてもおびえたように身体を震わせた。しかし、口は固く閉じられたままだ。
カツカツカツと攻撃的な足音を鳴らして御影に近づく。
殴られる! と思ったのかは定かではないが、御影はぎゅっと瞳を閉じた。
ガサガサ。
「これあげるから何で死のうとしたのか教えなさい」
海里の言葉に恐る恐るといった様子でまぶたを上げた御影は、目の前に突き出されたフライドチキン──包装の一部が破れられている──を見て、ぽかんと口を開けた。それから、「いらないけど……」
「──はぁ?」せっかく断腸の思いでフライドチキンを分けてあげようとしたのに何という態度だろうか。意図せずとも眉尻が吊り上がってしまう。
「あ、いや、ごめん、やっぱり欲しいです。食べたいです」御影は慌てたように発言を翻し、ぬるくなったフライドチキンを受け取った。
「受け取ったんだから包み隠さずすべて吐きなさいよ」押し売りじみているような気もするが、まぁ、たいした問題ではない。
「……」御影はまた黙り込んでしまった。しかし、その表情は最前、輪っかを握りしめていた時よりも幾分か柔らくなっているように見えなくもない。
「あ」海里はあることに気づいて声を発した。「『吐きなさい』っていうのは、フライドチキンをリバースしろって意味じゃなくて全部話せって意味だから」
「……はい」あきれたような、諦めたような力のない答えが返ってきた。
「何よ、何か文句でもあるの?」
「いえ、ないです」
「よろしい」大仰にうなずき、「じゃあちゃっちゃと話して」
「……わかったよ」
御影は話しはじめた。死のうとした、その訳を。
「話はわかった」御影の話をひととおり聞いた海里は言った。
御影の話を要約すると、〈同じクラスの桐ヶ谷裕貴とその友人たちにいじめられていて、それを苦に自殺しようとした〉となる。月並みな動機だが、それゆえに説得力がある。
「何でいじめられてるの? 桐ヶ谷に何かしちゃった?」
「……」少しだけ間を置いてから、「わからない、僕は何もしてない」
「そっかぁ」御影の目を覗き込むようにして尋ねる。「先生には言ったの?」
御影はその視線から逃げるように目を逸らしつつ、「……言ってない」と小さな声で答えた。
「親は?」
「……そっちにも言ってない」非常に場都合が悪そうだ。加えて、海里の機嫌を損ねないか心配しているようでもある。こちらの顔色を窺うような卑屈な視線が鬱陶しい。
「はぁ」自然と溜め息が出た──これじゃああたしがいじめてるみたいじゃん。そんなつもりはないのに失礼なやつだ。「何で大人に相談してないんだよ?!──なんて言わないって。親に言いにくいってのはわかるし、先生に相談したことが桐ヶ谷たちにバレちゃうといじめが余計にひどくなるかもだから気軽に先生に頼れないってのもちゃんとわかってるよ」
「うん、ごめん」
だから謝るようなことじゃないって話なんだけどあんまりわかってなさそう、とまた溜め息が洩れそうになるも、グッとこらえた。
「クラスで味方になってくれそうな友達とかはいないの?」たぶんいないから自殺するとこまで追い詰められたんでしょうけど、と思いつつ聞いた。
「……いない」御影はうつむき、「みんな自分がいじめられたくないんだ」仕方ないよ。それに僕も……。消え入りそうな声でそう言い足した。
うわちゃー、これでもかってくらい顔を曇らせてるよ、と海里は頬を引きつらせた。あたしが泣く泣くプレゼントしたフライドチキンにも口をつけてないし、こりゃあ重症も重症、危篤状態だわ──自殺寸前まで行ったんだから当たり前か、と心の中でセルフツッコミ。
「あたしがガツンと言ったげようか?」おう、うちの御影が世話になったなぁ? ちぃと面貸せや。みたいな。
「……ダメだよ」御影は首を横に振った。「そんなことしたら古川さんもターゲットにされてしまう」
「んなこと言ったって自力でどうすることもできないなら誰かが介入するしかないじゃん」
御影は押し黙った。「……」
「何だよ、お腹でも痛いのか?」尋ねてから、そういうことだったのか、と膝を打った。だからフライドチキンを食べようとしないのか──、
「どうしてそこまでしてくれるの? 古川さんからしたら僕なんてどうでもいいんじゃないの?」御影の怪訝の瞳には警戒の色が混ざっていた。
「どうでもいいってことはないよ。共感してもらえるかはわからないけど、見ちゃった以上──知っちゃった以上、できるだけ見て見ぬふりはしたくないんだよね」
正義の皮を被った自己満足。海里自身、今の自分の言動はそんなふうに非難されかねないものであることは理解している。それでも、御影を助けようとすることは間違っていないと信じている。
「……」しばらくしてから、つぶやくように御影は言った。「ありがとう」
「うん、気にしなくていいけど──」で、どうするよ? あとはもう桐ヶ谷をボコすくらいしかないんじゃない? という言葉が飛び出すより先に、
「もう少しがんばってみるよ」御影は少しだけ語調を明るくした。
「うん? 急にどうしたの?」
しかし、御影は海里の問いには答えずにポケットから携帯電話を取り出し、それを見てから、「古川さんは帰らなくて大丈夫? もう少しで十一時になるけど」
慌てて腕時計を確認すると、十時四十七分を示していた。「ヤベー」
海里の両親は門限などにうるさいほうではないが、「ちょっとコンビニに行ってくる」と言って夜の九時過ぎに家を出た中学生の娘が二時間近くも帰ってこないとなると流石に怒るだろう。加えて、こんなときに限って携帯電話は部屋に置いてきている。連絡が取れずにやきもきしているかもしれない。
御影も元気になったみたいだし、さっさと帰ろう──海里は即断した。
「じゃ、あたし帰るから。もう首吊ろうとすんなよ」足早に廃病院を出ようとして、はたと立ち止まった。スタスタと御影の下に戻り、「あたしの連絡先教えるから携帯貸して」
「あ、うん」
御影は素直に応じて携帯電話を差し出した。パパッと登録して携帯電話を返す。
「何かあったらメールか電話ちょうだい」
「うん」
「今度こそ帰るね」
海里は廃病院を後にした。ふと気がつけば、いつの間にかカラスは静かになっていた。
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