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〈現在③〉
プライベート・アイランドと言うからには、当然、プライベート・ビーチも内包している。
というわけで、初日に甘露が、「明日は海で遊ぼうよ」と提案したのを受け、二日目の今日は仕事のある小熊以外の全員で朝から島の南側にあるビーチに来ていた。
燦々と降り注ぐ日差し、青緑色に輝く海、ごみ一つないまっさらな砂浜。
完全無欠のビーチが見えた瞬間、蒼介は、
「すっご、ヤバすぎだろこれ、すっご、ヤッバ」
と語彙力を水平線の向こうへ放り投げた。そして、ビーチに到着するや否や、
「早く泳ご──」うぜ! と喉まで出るが、雫由を視界の端に見つけ、その言葉を何とか飲み込んだ。保護者の蒼介が雫由を放って遊び呆けるわけにはいかないのだ。
しかし幸運なことに、「雫由君のことはわたしが見てるから行っておいで」と辻本が申し出てくれた。
申し訳なさが湧いてくるが、とはいえキラキラと陽光に照る海の誘惑には勝てそうもなかった。「すみません、お願いしていいですか?」
「ああ、構わないよ」辻本はうなずいた。
雫由に、「雫由はそれで大丈夫か?」と尋ねると、
「いい」と返ってきた。その表情はいつもどおりの平坦なものだが、声音から不機嫌さは窺えない。昨日のホラー談議で辻本に懐いたのだろうか。少し寂しい気がしなくもない。
が、今はそれよりも海だ。
「フィットネスクラブで鍛えたバタフライを見せてあげるわ」赤いビキニ姿で白い肌をさらしている凛香子が言った。どうやら彼女も泳ぎたいようだ。
というか、ビキニでバタフライ? 紐はほどけないのか?
蒼介の心の中では、大丈夫なのか、という不安と、大丈夫じゃないといいな、という期待が肩を組んで笑っている。
「わたしも一緒に泳ぐ」甘露も来るようだ。こちらはピンクのフリルビキニを着ている。
泳ぐのに向いていなそうな水着だけど、まさか甘露までバタフライで泳ぐとか言い出さないよな……?
蒼介と甘露の視線がぶつかった。甘露はにやりとすると、胸を張るようにしてその大きな膨らみを見せつけてきた。「結構あるでしょ? わたし着痩せするタイプなんだよね」
「たしかに」蒼介は大きくうなずいた。
「ふーん、蒼介君はおっきいのがいいんだ、へー、ふーん」いろいろとスレンダーな凛香子が口を尖らせてからかうように言った。しかし、
「俺は尻派だ。胸の大きさに興味はない」重要なことなので毅然たる態度で断言した。
「え、あ、はい、ごめんなさい」凛香子は蒼介の勢いにたじろいだようだった。
「えー、嘘ー」甘露は、すぅーと蒼介に近づき、「じゃあさ──えいっ」と蒼介の手を自身の胸に宛てがった。
「え……」──はぁ!? 何してんの、この人?!
「これでも何も感じないの?」甘露は上目遣いを炸裂させた。「ほら、好きなだけ揉んでいいんだよ?」
え? そう? そういうことならお言葉に甘えて……、
「って、揉まねぇよ!」と手を引っ込める。
流石に、ない。こんなところでいきなりそんなことをするなんて常識的にありえないだろう。少し危なかったような気もしたが、きっと気のせいだ。
「おー、すごい」と甘露はパチパチと軽薄な拍手をした。「ゆうく──岳大はふっつーに揉んできたのに全然違うね」
「おい」すかさず桐渓が口を挟む。「別に教えなくてもいいだろ」
ん? 要は桐渓とも同じようなやり取りをしたってことか? それってつまり……、
「甘露ってメンヘラビッチなんだな」
「ぷっ」「はっ」凛香子と桐渓が同時に笑みを零し、
「えー」甘露は不満の声を発した。「メンヘラじゃないし、むしろ風邪もひかない超健康体だしぃ?」
「ビッチは否定しないんだな」蒼介が言うと、
「まぁ、エッチは好きだからね」甘露はあっけらかんと答えた。「でも誰でもいいってわけじゃないよ? そこは勘違いしないでね」
つーことは俺はお眼鏡にかなったってことかね?
性欲とメイクはともかく、甘露のような愛嬌のある子に好かれるのは悪い気はしない。けれど──。
ちらりと凛香子に視線をやる。
「どうしたの?」凛香子は不思議そうに尋ねた。
「いや、何でもない。そんなことより早く海に入ろうぜ」
「それもそうね──あ、待って」凛香子は言う。「しっかりストレッチしないとダメよ」
「了解っす」
うん、やっぱり凛香子さんが一番きれいだ。
泳ぎに、つまりは海のそこそこ深い所に向かったのは、蒼介、凛香子、甘露、桐渓の四人だった。
一方、辻本と雫由は砂で何かを作っていて、有栖はその近くでリクライニングチェアに身体を預けて日光浴をしているようだった。そして、一番協調性のなさそうな上杉はというと、蒼介たちのいる場所よりも沖で一人プカプカと浮かんでいた。澄みわたった空を見ているのだろうか。そうだとしたら、たしかに空もきれいだから気持ちはわからなくもない。
しばらくして甘露が、「疲れたぁー」と声を上げた。
「そろそろ戻るか?」桐渓が蒼介と凛香子に尋ねた。あくまで質問という形ではあるが、その実、「甘露もこう言ってるし、戻ろう」と提案しているように蒼介には感じられた。
海は十分に堪能したし、予想以上に本格的だった凛香子のバタフライや甘露のサービスシーンも見れたし、否やはない。蒼介は、「そうだな」と肯首し、言葉を促すように凛香子に顔を向けた。
「だね」凛香子もうなずく。「戻ろっか」
海から上がり、辻本たちの下に戻った。
「どうだったかね? ここの海はすばらしいだろう?」辻本は肯定されることを確信した口ぶりで自慢げに言った。
「ええ、こんなすごい所が日本にあるなんて思ってもいませんでした」蒼介は本心からそう答えた。
──つんつん。
横っ腹をつつかれた。雫由かな? と思ってそちらを見ると、やはり雫由で、彼女は砂で作られた独特な形状の謎の物体を指し示し、一言、「たっくんの脳髄」
えぇ……、何かと思ったら脳髄って。つーか、たっくんって誰だよ……。
あまりにもあんまりなセンスに唖然とする蒼介の瞳に、雫由の、何かを期待するようなぱっちりお目々が映った──これは早急に何かを言わなければならない。
「お、おう、すごいな。とてもおいしそうないい脳髄だ」嘘やお世話が苦手なのに無理やり褒め言葉をひねり出そうとした結果、カニバリズム愛好家のような発言をしてしまった。たっくん、ごめん……、と誰だかわからない少年(?)に心の中で謝罪する。
「うん、たっくんはA5ランクだからね」雫由の頬がかすかに、本当にかすかに緩んだ。ような気がする。たぶん喜んでいるのだろう。意味不明なことを言ってしまったと思ったが、意外と正解だったようだ。すなわち、意味不明である。
不意に、「有栖さん、雫由ちゃんのこと見すぎですよ」とからかうような軽い調子の声──視線をやると、凛香子が有栖に笑いかけていた。「空港にいる時からチラチラ見てたし、有栖さんってロリコンなんですか?」しかし、その瞳の奥には有栖を非難する色が潜んでいるようでもあった。雫由ちゃんが嫌がってるかもしれないでしょ、そういうの良くないよ、と。
有栖は眉尻を吊り上げ、口角泡を飛ばして反論する──などということはなく、至って平静な口調で、「ロリコンというわけではないんだけど、あまり子供と接する機会がないから……何というか、もの珍しくてつい見てしまうんだよね」と答えた。
いささか言い訳じみていて、職務質問を何とかごまかそうとする薬物中毒者と同じにおいがしなくもないけれど、仕事中でもあるまいし、チラチラ見るだけの人間をいちいち非難する気は蒼介にはない。バカンスの楽しい雰囲気を壊したくないというのもある。蒼介は有栖の説明に納得することにした。
が、凛香子はそうはいかないようで、
「本当ですかぁー?」
笑みを浮かべて冗談めかしているが、彼女の眼差しは有栖を鋭く観察している。
「ひどいなぁ」有栖もおどけるように肩をすくめた──二の腕の贅肉がプルンと揺れた。「僕って、そんなにロリコンっぽいかい?」
二人の視線が交じり合い、一拍後、
「……まぁ、正直に言うと」語調をやや平坦なものに変えて凛香子は言った。「有栖さんの小説、中学生以下の美少女だらけじゃないですか。中には小学校低学年の子もいるし内容も過激だし、申し訳ないですけど、ちょっぴりキモいなって思ってました」
「……」ごく短い沈黙の後、有栖は、はぁ、と溜め息をついた。「凛香子ちゃんもわかってて言ってるんだろうけどさ」今にも、やれやれ、とでも言い出しそうな雰囲気だ。「あれは僕の趣味じゃなくて編集の指示だから。担当の双葉ちゃんがね、『エログロロリ路線で一般書籍の限界をぶち破りましょう! これは革命です! エログロロリ革命です! まずは自爆テロでレビューコーナーとSNSを爆発炎上させましょう! それから地上波アニメに殴り込みです! クソったれのPTAをぶっ殺すんです!』ってうるさいから仕方なく書いてるんだよ」それから、「本当はもっと硬派なファンタジーを書きたいのにさ」と諦念と疲労をにじませた顔でつぶやくように続けた。
小説家──有栖に言わせればラノベ家か──も大変なんだな、と蒼介の裡に同情心が湧いてくる。書きたくないものを何百ページ分も書かなきゃならないなんて、数百文字の読書感想文すら億劫でたまらない蒼介にはとても耐えられそうにない。
有栖の悲しい裏話を聞いた凛香子は、しかし完全には納得していないらしく、「そうですか、今はそういうことにしておいてあげます」としぶしぶといった体で引き下がった。
──ちっ、一発屋のくせに。
凛香子が離れた後、有栖が小さくそう吐き捨てた気がしたが、その声は、「ねぇねぇ!」という甘露の大きな声と重なり、はっきりとは聞こえなかった。
ちょっとした悪口のようなものにいちいち言及しても疲れるだけだろう。蒼介はそう判断し、聞き間違い、あるいは気のせいだと思うことにした。そちらのほうが精神衛生上いいはずだ、と。
切り替えて甘露に顔を向けると、何だ? 何だ? という全員の視線が彼女に集まっていた。
「ビーチバレーやろうよ!」甘露はわざとらしささえ感じさせる明るい声色で言った。
そういえばビーチバレーセットを持ってきてたんだった──すっかり忘れていたが、ネットをビーチまで運んだのはほかならぬ蒼介だ。
「おー、いいぞー」最初に同調したのは桐渓で、次が意外なことに上杉だった──いつの間にか海から戻っていた彼は、「やる」と短い言葉を発し、ビーチバレーセットのポールに手を伸ばした。
甘露は気を遣ったのだろう。それは何となく察せられたが、上杉はどうだろうか。彼のぼんやりとした無表情からは何を考えているのか読み取れない。
「……」まぁ何でもいいか。
と気にしないことにして蒼介は、「俺もやる」と参加を表明した。
結局、ビーチバレーのメンバーは甘露、凛香子、桐渓、上杉、蒼介の五人に決まった。二チームに分けると三人対二人になってしまうが、所詮はお遊びのビーチバレー。緩い雰囲気でやるのだろうからたいした問題ではないだろう。そんなふうに、たかをくくっていたのだが──。
「──っ!」高く跳んだ凛香子が左腕を一閃。蒼介たち──蒼介、甘露、桐渓──の意識の逆を突くようなコースに強烈なスパイクが決まった。
無理、絶対無理、こんなの素人には無理だって。
「はぁ、はぁ、はぁ」蒼介は膝に手を突いて肩で息をする。止めどなく汗が流れている。
やがて背を伸ばした蒼介は、しんどー、と快晴すぎる天を仰いだ。
──やるからには本気でやろう!
そう言い出したのは甘露だった。
「いいの? わたし、高校のころバレー部でそれなりにやってた人だよ。夏のインターハイでもいいとこまで行ったし」
そう答えたのは凛香子だった。
「へぇ、それはいいことを聞いた。実はわたしもバレーやってたんだよね。だからわたしが二人のチームに入るつもりだったんだけど、余計な気遣いだったかな? ちなみに二年の時、春高バレーでベスト4だったよ」
この時点ではまだ、へー、すげーなー、と呑気に構えていた。
危機感を抱きはじめたのは、桐渓までもが、「甘露がバレーやってたのは知ってたが、そこまでのレベルだったのか。実績については話したことなかったけど、実は俺もなんだよ。これでも国体準優勝チームのレギュラーだったんだぜ」と、さらっと不穏なことを口にした時からだった。
国体準優勝? そのチームのレギュラーだって……? それってそうとうエグいんじゃ……。
バレーのことは全然知らない蒼介だったが、桐渓の言葉を聞いてより一層好戦的な顔になった女二人を見て、やっぱりそうなんだ、と察し、震えた。
「オレもやってた」上杉が当然のようにバレー経験者であったことが最後のひと押しとなり、やっぱり参加すんのやめよう、そうすべきだ、と野球部の二番手投手だった──バレーは体育の授業でかじっただけの蒼介は思ったのだが、
「けど、ずっと補欠だったからそんなに上手くない」
と上杉が言ったことで、でも流石に現役のころよりは衰えてるだろうし大丈夫だよな、と少し前向きになることができた。しかし、世の中はそんなに甘くなかった。
「三冠を達成した時もベンチに座ってる時間が長かったから退屈だった」などと上杉がぼやくように言ったのだ。
三冠達成というのが具体的にどのくらいすごいかはわからなかったが、経験者三人衆が、「三冠!?」「うっそだろ……」「そのチームでずっとベンチ入り……?」とざわついたので、あ、これダメなやつだ、とすべてを悟った。
「あー、悪いけど──」俺、ついてけなさそうだから審判でもやるわ、と言おうとしたところで雫由が駆け寄ってきていることに気づき、言葉を切った。
雫由は、「忘れ物」と言って火傷防止用のサンドソックスを渡してきた。それだけならばよかったのだが、彼女は続けて、「がんばって」と言ってくれたのだ。どことなく身内の活躍を期待しているようなニュアンスで、だ。
血の繋がりがないこともあって雫由に家族と認めてもらえているのかわからずに過ごしてきたが、どうやら少しは受け入れてもらえていたようだ、と蒼介はうれしくなった。しかし同時に、周りのレベルが高すぎてついていけないからやっぱり参加しないことにした、とは言い出しにくくなってしまった。
「……ああ、がんばるよ」蒼介は泣く泣くそう答えた。
それから、蒼介はがんばった。経験者たちに食らいつこうと炎天の下、全力で動き回った。
けれど、やはり通用しなかった。相手が悪すぎたのだ。
結果は蒼介たちのチームの負け。
「すまん、足、引っぱっちまったよな」
そう言う蒼介に桐渓と甘露は、「いいや、悪くなかったぜ」「さっすが、現役刑事の身体のキレは違うね」と優しい言葉をくれた。
なお、肝心の雫由はというと、途中で飽きたらしく、試合が終わった時にはパラソルの下でお昼寝をしていた。
ビーチから館に戻ったのは午後の一時過ぎであった。遅めの昼食を済ました蒼介たちは、夕食まで各々自由に行動することとなった。
蒼介は部屋で休むことにした。慣れないことをして疲れたのだ。そんな蒼介に付き合おうと思ったのか、はたまたただの気まぐれか、雫由も部屋──蒼介と同室だ──で読書をするようだった。
「何読んでんだ?」
蒼介が尋ねると、雫由は聞いたことのない題名を口にした。
「そんなの持ってたっけ?」
「辻本さんから借りた」
そういうことか。スマートフォンも圏外だし俺も何か借りられないかな──凛香子さんの『紅い翅』とかいいかもしれない。
思い立ったが吉日、蒼介は部屋のドアを開け、辻本の部屋へと向かった。
辻本から借りた小説──『紅い翅』だ──から顔を上げて時計に目をやると、十八時二十八分を示していた。夕食は十九時開始なのでそろそろ食堂に向かったほうがいいだろう。
小説に栞紐を挟み、雫由に声を掛ける。「もうちょっとでごはんの時間だからそろそろ食堂に行かないか?」
こちらに顔を向けて雫由は、こくりとうなずいた。
部屋を出ると、オレンジの光が廊下を満たしていた。
蒼介たちやサークルメンバーの客室は三階──食堂の上の辺りにあり、客室が並ぶ廊下の窓からは島の西側が一望できる。廊下の窓に近づく。まだ日は沈んでいないが、空は茜色へと装いを変えていた。
──ガチャリ。
不意にドアの開閉音が鼓膜を刺激した。
「蒼介さん」出てきたのは甘露だった。「それに雫由ちゃんも」
「甘露も今から食堂に?」蒼介は尋ねた。
「うん」甘露は気安い調子で、「一緒に行く?」
「そうすっか」
蒼介たちはエレベーターで一階へ向かった。すぐに一階のランプが点灯し、扉が開いた。
食堂に到着すると、桐渓と小熊以外の全員がそろっていた。桐渓の所在はわからないが、小熊は調理室にいるのだろう。
今夜は何が食えるのかな──考えると、ぐぅ、と腹が鳴った。
席は自由らしいので、空いている椅子を引き、腰を下ろした。
──お。
蒼介は壁際の棚にキャンドルがあることに気がついた。パステル調の淡い色合いのブルーやピンクのキャンドルにゆらゆらと火が揺れている。誰の趣味だろうか。随分と洒落ている。
……そういえば親父の店にもあったっけ。
今は亡き父の経営していた喫茶店、〈iCe&shirt〉のことが思い出された。が、しかし感傷に浸るというでもなく蒼介は不安定なオレンジ色を見るともなく眺める。
不意に紅茶の芳醇な香りが臭覚をくすぐった。香りのするほうに目をやる。小熊が辻本に紅茶を出したようだった。見られていることに気づいた彼女は、こちらにほほえみを寄越した。「桜小路さんもよかったらいかがですか?」そう言っで紅茶を差し出してきた。
「ありがとう」父の入れる紅茶とは違う香りだったが、蒼介は笑みを浮かべた。「ありがたく頂きます」
その後はサークルメンバーとたわいない話をして夕食までの時間を潰していたのだが、夕食開始の時刻である七時になっても桐渓が現れないことに甘露が怪訝と不満、そして心配の声を洩らした。「岳大、どうしたんだろ……」
雫由を挟んで右隣の甘露に顔を向け、「桐渓さんって、時間に厳しい人なのか?」
「うーん、そこまでではないけど──」遅刻はめったにしないかな。甘露はそう続けた。
なるほど、それなら心配になるのもわからなくはない。
蒼介は一定の理解を示したが、つっても寝てるだけってオチかもしれないしそんなに心配しなくてもいいと思うけどな、と常識的な感覚でもって楽観的に考えていた。
のだが、
──パアァァァン……。
やにわに、夏夜を裂く大音が耳に飛び込んできた。
「!?」……スナイパーライフル、か?
銃声の大きさと音色から蒼介はそう当たりをつけた。もっとも、平和な日本の一地方の警察官にすぎない蒼介は、銃声──銃にそれほど詳しいわけではない。推定程度にとどめておくべきだろう。
弛緩していた食堂の空気が指数関数的に浮き足立っていく。
「蒼介君」眉間を険しくした凛香子が、同意を求めるように蒼介に問いかける。「今のって……」
「──ああ」一瞬どう答えるべきか迷ったが、事ここに至っては正直に言うしかあるまい、と判断した。それに、そもそも蒼介はそういう気遣いも苦手だ。したがって、
「断定はできないが、銃声、それも大型の銃のものである可能性が高いと俺は見ている」
嘘偽りなく所感を述べた。
誰かの息を呑む気配。そして、重苦しい静寂。
銃声なんて何かの間違いであればいいが……、と願いつつも、楽しいバカンスの終わり──惨劇の始まりを予感していた。
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