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〈過去③〉
コンビニで買ったルーズリーフの上で海里の右手が滑らかに動いている。自宅の自室にて、愛犬泥棒の容疑者──昨夜見た怪しい男の似顔絵を描いているのだ。
こんなこと──犯行の目撃者になることもあろうかと普段から似顔絵を描く練習を怠っていない海里の画力は、美術部の部員をして、「探偵なんか目指さないでイラストレーターになったら?」と言わしめるほどだ。犯人からすれば目撃者がいるだけでも由々しき事態なのに、その目撃者がイラストレーター顔負けの画力を持っているなど悪夢以外の何ものでもないだろう。
学習机の上に置かれたデジタル式の目覚まし時計が二十時二十一分を表示したところで似顔絵が完成した。鉛筆を置き、ルーズリーフを持ち上げてまじまじと眺める。
「うーん」
何か違うような気がする、と海里は難しい表情を浮かべた。
犯人との距離及び田舎の夜特有の暗さのせいではっきり見えなかったところは想像力でカバーして無理やり形にしたのだが、いまいちしっくり来ない。
でもなぁ、これ以上どうしようもないしなぁ──完全には納得できないが、しかし結局は現実を受け入れて妥協することにした。
これでいいや。たぶん完璧、きっと完璧、絶対完璧、流石あたし。
自らに言い聞かせるように自画自賛し、ルーズリーフをクリアファイルに入れると、携帯電話がメールの通知音を鳴らした。御影からメールが来たようだった。
メールには、『今月は土日なら大丈夫。』とあった。絵文字も何もない文面だが、句点はしっかりと打たれていた。御影は几帳面なきらいがあるのかもしれない。
海里はすぐさま返事のメールを打ちはじめた。
『メールありがと!』『早速、今週の土曜日から犯人捜しを始めよう!』『頼りにしてるよ!』
深い意味はないけれど、ハートマークと笑顔の絵文字と、更にもう一つハートマークを付けてから送信ボタンを押した。
程なくして再び御影からメールが来た。『わかった。』とだけ記されていた。
御影と美咲には、土曜日から一緒に捜そうね! と言ったが、二人とは違って時間に余裕のある帰宅部の海里は、警察に情報を提供した後、一足先に単独で捜査を開始した。刑事犯の発見一番乗りという大金星を上げられる稀有なチャンスを前にじっとしていられなかったのだ。
夕方に差しかかった時刻、海里は、日曜日の夜に愛犬泥棒らしき男が出てきた住宅を訪れた。犬小屋は前回見た時と同じく空のままだった。
──あの男は絶対に黒。泥棒に決まってる。
美咲は決めつけは良くないって言うけれど、そういうレベルは超越している、と思う。泥棒でないなら何で他人の家の飼い犬をあんな時間に人目を憚るようにして連れていくんだよ? あれを正当たらしめる事情は思い浮かばない。
玄関の呼び鈴を鳴らした。一拍後、インターフォンから、『はい、どちら様でしょうか?』と訝るような女性の声が発せられた。
見ず知らずの中学生がいきなり訪ねてきたらこういう反応にもなるだろう。当然、予想済みだ。
海里は臆することなくハキハキとした口調で所属する中学校名と自らの名、そして経緯と急な訪問の目的を告げた。
『あらまぁ』インターフォンの女性は驚きと感心を両立させた。『随分かわいらしい探偵さんね』それから、今開けるからちょっと待っててね、と言い、バタバタと騒々しい足音と共に玄関を開けてくれた。現れたのは、丸いフォルムの女性だった。エプロンをしている。夕ごはんの支度をしていたのかもしれない。
「突然の訪問にもかかわらず対応していただき、ありがとうございます」まずは礼を述べ、少しでも印象が良くなるように努める──例に洩れず、来たるべき聞き込み捜査のために敬語の練習も欠かしていなかったので言い回しに迷うことはない。海里は内心、やっと捜査に役立てられる! と歓喜していた。もちろん申し訳なさそうな表情は崩していない。この、表情取り繕いスキルも(以下略)。
「いえいえ」女性は恐縮したように言う。「そんなに畏まらないで。わたしたちもムギちゃん──突然いなくなってしまった愛犬の情報を欲しているから、むしろこちらからお願いしたいくらいなのよ」
よっしゃー! それならめんどうな敬語はやめてもいいよね? 丸いおばさん、ありがとー!
と言いたいのをグッとこらえ、「お心遣い痛み入ります」とだけ神妙なフェイスで口にした。そして本題に入ろうと、「早速、幾つか質問させていただいてもよろしいでしょうか?」と尋ねた。
「ええ」とうなずいた丸い女性は、「その、ムギちゃんが怪しい男に連れていかれたのを見たというのは本当なの?」とこちらに先んじて質問を投げかけてきた。
「はい、本当です」本当は現時点では真偽について多少の疑い──そもそもあのコーギー犬はムギちゃんなる犬で間違いないのか、など──はあるのだけど、曖昧な言い方は好きでないので、細けぇこたぁいいんだよ! の精神で断言した。「日曜日の夜十一時ごろのことです。所用で外出していたわたしは──」
海里は事情を説明した。話が進むにつれ、丸い女性は眉間を肉々しく隆起させていった。
ひととおり話しおえた海里は、確信を得るため、「ムギちゃんがいなくなったのは、いつごろのことでしょうか?」と核心を突いた。
「月曜日の朝にはもうどこかに行ってしまっていたわ」
やった! やっぱりあたしの推理は正しかったんだ──! という浮わついた、かつ不謹慎な本音はおくびにも出さずに、「なるほど……」と深刻そうに応じてみせた。
そして、スクールバッグからクリアファイルを取り出した。中には、昨夜、数分で完成させた似顔絵が入っている。
それは……? という目をしている丸い女性に似顔絵を見せ、「わたしが見た男の似顔絵です。この男、又はこの男に似た人物にお心当たりはないでしょうか?」
「ううん」と思案顔になって少しの間考えた丸い女性は、しかしかぶりを振った。「こんな男は知らないわ」
「……わかりました」
──では次の質問です。
それから少しの間、丸い女性と言葉を交わした。彼女の返答はいずれもあの男の特定に繋がるものではなかったが、彼への嫌疑を強めるには十分なものであった。
丁寧に礼を言ってから海里は丸い女性の住宅を後にした。
「ふぅ」堅苦しいしゃべり方をした疲れが溜め息を誘発した。
でも、疲れた甲斐はあった。丸い女性はあの男を知らないと言った。月曜日の朝には愛犬のムギちゃんがいなくなっていた、とも。
もはや疑う余地はなく、あの男が巷を騒がせている愛犬泥棒で確定だろう。
すなわち、これからの捜査方針は──。
「──というわけで地道な聞き込み捜査の時間だ!」
土曜日の朝、近所の公園に集合した美咲と御影に向かって海里は堂々と宣言した。
「あー、まぁ、わかったけど」美咲は納得のいっていない様子で言った。
「何でそんな微妙な顔してんの?」海里は尋ねた。
「だってねぇ」美咲はきれいに整えられた眉を困ったように曲げて言う。「わたしらみたいな子供はまともに相手してもらえないんじゃないかなぁって思うと、あんまりやる気が出ないのよ」
「そこら辺の大人よりおっぱいデカいくせに何言ってんの」
「おっぱいは関係ないでしょ」
「えー」そんなことないよね? と首をねじって御影に顔を向けると、彼は無言で首を横に振った。
「むー、裏切り者ー」その言葉とは裏腹に恨みがましさを感じさせない声音で海里は言った。それから美咲に視線を戻し、「だーいじょーぶだって。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言うじゃん。仮にそういう人がいてもガンガン数をこなせば、きっと確度の高い情報は集まるよ」
そう都合よくいくかねぇ、という懐疑的かつ否定的な言葉は都合よくスルーして海里は、女子中学生が持つには少しばかり無骨なデザインのリュックサックから似顔絵入りのクリアファイルを二枚取り出した。先日、コピーして入れておいたものだ。
美咲と御影にクリアファイルごと似顔絵を渡す。「はい、これ、犯人の似顔絵だから」
「相変わらず上手いわね……」美咲はあきれ顔で褒めるというややこしいことをする。
他方、御影は少しだけ目を大きくして、「これ、古川さんが自分で描いたの?」
「そうだよ」それから海里は、「あたしみたいながさつな女が、絵が上手いのは信じられない?」と戯れ言を言った。
だけなのだが、海里を不機嫌にさせてしまったと勘違いしたのか、御影は卑屈そうに肩をすぼめて、「あ、いや、ちが、ごめん、あんまりにも上手いから驚いちゃって」
「練習してるからね──あと、あたし怒ってないから謝らなくていいよ」
「うん、ごめん」ともう一度言ってから御影は、似顔絵をまじまじと見て、「……かなり上手いと思う」本心から感心しているようだった。
水を差すように美咲が言う。「この子、推理と勉強以外は割と何でもできるから」
勉強はともかく推理ができないと言われるのは心外だ──というほどでもないが、「うるさいよ」と切り返した。
しかし、美咲はハリウッド映画に登場する白人のように肩をすくめるだけだった。
それから少しして、海里たちは手分けして聞き込み捜査を開始した。
土曜日、日曜日と三人は聞き込み捜査に精を出したものの、結果は芳しくなかった。あの男の情報もウェルシュ・コーギー・ペンブロークのムギちゃんや御影家の飼い犬のコテツ君の情報も得られなかった。
しかし、海里はへこたれなかった。聞き込み捜査というのは元来こうであるはずだ、とシビアに考えていたからだ。
とはいえ、何の進展もないまま一週間、二週間と時が過ぎていき、そのまま三週間目の日曜日を迎えてしまった時には流石の海里もしょんぼりと肩を落とした。
どうしよう、全然見つかんないんだけど。
海里たちは連続愛犬盗難事件特別捜査本部(近所の公園)に集まっていた。日曜日ということもあってか、まだ朝の早い時間だというのに小学校の低学年らしき少年たちがサッカーボールを蹴っている。
腕組みをして悩ましげに首をひねる海里を見かねたのか、御影が言う。「コテツのことは心配だけど、でもこれ以上は捜しようがないよ。諦めて警察に任せよう」
「そうね」美咲が同調する。「やれることやって、それでもダメだったんだから諦めるしかないよ」
「むぅ」思わず、すねた子供のような声が洩れた。
痛恨の極みではあるが、二人の言うことが正しいということもわかっている。
……やむを得ないか。
海里は溜め息をつき、しぶしぶと肯首した。「わかった。今日捜して何の手がかりも得られなかったら捜査は打ち切りにする」
すると、二人はほっとした顔を見せた。
……悔しいなぁ。
結局、聞き込み捜査は何の成果も出すことができなかった。
夕日に照る公園で解散し、海里は一人、家路に就いていた。
何で見つかんないかなぁ?
未練たらしく、否、今後のために敗因──反省すべき点を洗い出しながら歩いていると、日本全国で覇権を握るコンビニエンスストアチェーンの看板が目に入った。
気がつけば、空腹により胃がきりきりと痛んでいた。それに、喉も渇いている。一日中動き回っていたのだからこうなるのも至極当然だった。
今、食べてしまうと母の作る夕食が入らなくなる──などということは、食べ盛りで健啖家の海里に限ってはありえないので、迷うことなくコンビニの自動ドアをくぐった。
抹茶ラテかレモンティー、あとはホットスナックを適当に買おう。
海里は冷蔵リーチインショーケースの中の飲み物を物色しはじめた。
すると、後ろから唐突に名前を呼ばれた。振り返ると、私服の服部がいた。
「ああ、何だ、服部さんか」
「期待した人物じゃなくて悪かったね」服部はからかうように言った。
「別に期待してた人とかはいないけど」
「そういうことにしといてあげよう」服部は知ったふうな顔で言った。
イラッと来た。何なんだろ。この前からうざすぎないか?
海里が顔をしかめると、服部は苦笑し、「ごめんごめん」と謝罪した。が、「海里ちゃんを見てると、つい、からかいたくなっちゃうんだよ。悪気はないんだ」と言い訳をしたいのか喧嘩を売りたいのか判断に迷うことも続けて口にした。
「うぜぇ」心底そう思った。
「まぁまぁ、そう言わずにおじさんにも優しくしてよ」服部の言葉は聞きようによっては随分と危うい響きを孕んでいるようにも思えたが、海里はいちいち突っ込まなかった。その甘い対応が良くなかったのだろう、彼は、「飲み物ぐらいなら奢ってあげるから少し付き合ってよ」と女子中学生を物で釣ろうとしてきた。
『逮捕(児童売春の疑い) 服部肇容疑者(三十四)』
そういうニュースが放送されているところが頭をかすめたものの、
「全然いいよ! 幾らでも付き合う!」
と海里は喜色を浮かべた。うぜぇやつだとは思うが、嫌っているわけではない。信頼もしている。何よりお財布が喜んでいる。
というわけで、レモンティーとフライドポテトを買ってもらった海里は、イートインスペースの止まり木──ちゃちな椅子に腰掛けた。隣に座る服部に向かって、
「で、何? おもしろいミステリーでも発掘したの?」
こう尋ねたのは、服部とは普段からミステリーのことばかり話しているからだ。今回もその類いだろうと思ったのだ。
しかし服部は、「違う違う」と顔の前で手を振った。
「え、じゃあ──」まさか本当に身体目当て……?
恐れおののく海里をよそに服部は続ける。「海里ちゃん、今日は何か元気ないな、と思ってさ。悩みがあるなら聞こうかな、ってね」
「おう?」
弱っているところに付け込んであわよくば、というやつだろうか? 女日照りの独身生活がたたって手近な女なら中学生でもいいやととち狂ってしまったか……。
海里が憐憫の視線を向けると、
「え、何そのちょいブサな顔」服部はそんなことを言いやがった。
「やっぱり喧嘩売ってるでしょ」
「ごめんごめん」それから、「海里ちゃんはいつもかわいいよ」と取って付けたように言い足した。
レモンティーの容器にストローを突き刺し、口を付ける。さわやかな冷たさが喉を潤した。
ふぅ、と一息ついて冷静になると、そういえばこの人も一応警察官なんだっけ、と今更ながら思い至った。女子中学生を使って寂しさ(性欲)を紛らわそうとしているヤバいおじさん疑惑は否定しきれないけれど、もしかしたら何か有益なアドバイスを貰えるかもしれない。
海里は連続愛犬盗難事件について話してみることにした。
──服部さんは鰓陸市や埼玉市で起きてる連続愛犬盗難事件のことは知ってる?
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