第2話 娘さん、街の熊さんにお礼を言う

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第2話 娘さん、街の熊さんにお礼を言う

「ノエラ、刺繍糸を買って、買ってきてほしいのだけど」  翌朝、ノエラの祖母マルトはそうノエラに頼んだ。しかし、ノエラは左足首を手でさすって苦笑した。 「おばあちゃん、ごめんね。私、左足首を捻挫していて、今日はそんなに歩けなさそうなの。明日でもいい?」  昨日医者に処置してもらった湿布のおかげで、左足首の痛みはかなり楽になった。家の中ならある程度動き回れるが、今日はまだ、街への買い物は無理だろう。 「あら、あら、そうなの? そうね、急ぎじゃないから明日で大丈夫よ」 「わかったわ。それと、今日の夕飯の食材の買い物はおばあちゃんに頼んでも平気? いつも通り、メモをお店の人に見せればいいだけだから」 「ええ、ええ、いいわよ」  ほほ笑むマルトに、ノエラも笑顔を返した。  ノエラにとってこの世界で唯一の近親者である祖母マルトは、数年前から頭の老化が加速していた。普通の会話ができているように見えるが、少し前の出来事は時間が経つとまるでなかったかのように消えてしまうのだ。長年積み上げてきた記憶――たとえばノエラという孫がいることなどは忘却していないようだが、昨日薬草を取りに街の外へ行ったノエラが森の中で滑落して足を痛めたこと、しかしグントバハロンから来ていた巨躯の武人に救出されて無事に戻ってこられたことは、すでにマルトの脳内からは消えてしまっている。昨日、ノエラが戻らないから探してくれとグントバハロンの武人たちに頼んだのはマルト自身だそうだが、そのことさえも忘れているようだ。 (名前……聞かなかったなあ)  ノエラはマルトに飲ませるための薬を台所で煎じながら、昨日のことを思い出す。  マルトの咳止めの薬の材料となる薬草が切れていることに気付いたノエラは、さっと行ってさっと戻ってこられると思って北西のブナ樹林へ向かった。しかし、春先の地面は雪がとけて水を多く含んでぬかるんでいたようで、うっかり足をすべらせてしまい、しかも運の悪いことに斜面を転げ落ちてしまった。その衝撃で足首を痛め、森の中で動けなくなったノエラの背筋は冷えた。自力で帰れなくなったので誰かに見つけてもらうしかないが、ブナ樹林に用がある住民はそんなに多くない。春の気配をあちこちに感じる季節ではあるが、それでも暖かいのは日中だけで、日が暮れて寒くなる前に帰宅する者の方が多い。こんな場所に座り込んでいる自分を見つけてくれる者などいるはずがなかった。  このまま夜をむかえて凍え死ぬか、狼にでも襲われて死ぬのかもしれない。そう思ってノエラは一人泣いた。祖母を残して逝くことが、申し訳ないと思った。 ――ノエラさーん。  だから最初にその声が聞こえた時、幻聴だと思ったのだ。自分を捜しに来てくれる知り合いなど思いつかず、いっそそれは自分の死を待ち望んでいる死神かもしれないとすら思った。だが、何度も何度もその声は自分の名前を呼ぶ。そして徐々に近付いてくる。ご丁寧にも捜しに来てくれた旨を説明する声にようやく助けだ、と認識できたノエラは、死ぬかもしれないという絶望で冷えていた喉を必死に震わせて返事をした。  そうして助けてくれたのは、熊かと思うほどの巨躯の武人だった。ノエラと比べると頭ひとつ分以上はゆうに背が高く、厚みも横幅もある。自分と同じ人間とは思えないその武人は、ノエラを軽々と持ち上げてアマツリヤまで歩いてくれた。それが本当に本当に頼もしくて、このまま死ぬのだろうと思っていたノエラは、今度は安心感で泣きそうになった。  町医者に連れていってくれて、そして家まで送り届けてくれた熊のような武人。しかし、彼に名前を訊くことを忘れてしまった。長らく外にいたことで冷えた頭は、左足首の痛みもあってうまく回転していなかったのだ。 (グントバハロンから来たってことは、早くしないと帰ってしまうわ)  このルティドロン国の北方に住む原住部族たち。野蛮な彼らはたびたびルティドロンの領土を侵し、時には田畑に忍び込んで収穫直前の作物を大量に奪っていく。追い返そうと農具を手に持って攻撃すると当然のごとく彼らは応戦してくるが、そうして彼らに殺された民の一人が、ノエラの父だ。毎日手入れを欠かさず懸命に育てた野菜を盗まれて堪忍袋の緒が切れた父は、数年前原住部族に立ち向かって殺されたのだ。  同盟国である隣国のグントバハロンが原住部族と戦い、追い返すための武人たちをたびたび派遣してくれるが、温厚な気質のルティドロンの民とて自ら立ち向かうこともある。しかしその勇敢さが仇となってノエラの父は死んだ。母はノエラが幼い頃に病で亡くなっているので、ノエラの存命の家族は父方の祖母であるマルトだけだ。 (軍会館へ行けば会えるかしら)  ここアマツリヤは、ルティドロンの北方域最大の都市である。グントバハロンが援軍を送ってくれる際にはほぼ毎回拠点となる都市なので、いつの頃かルティドロン国はこのアマツリヤに「軍会館」という役所並みの大きな建物を建設した。規則上はアマツリヤの民が使うこともできるが、軍会館は名実共に、グントバハロンから来た武人たちのための施設だ。原住部族と戦ってくれるグントバハロンの軍に毎度天幕を張らせたり野営を当たり前にさせたりするのは忍びない、ということで建設されたそうだ。  そうするくらいならルティドロンの民自ら兵力を強化すればいいだろうに、という意見もあるが、残念ながら気質ゆえか、ルティドロンの民たちは武器よりも農具をとにかく持ちたがる。一方のグントバハロンは血の気が多い気質なのか、武人の数が増えることはあっても減ることはない。また、救援要請の対価としてルティドロンが差し出す食料類は、グントバハロン内でありがたがられているらしい。ルティドロンの救援は同盟を組んでいるがゆえに行う支援だが、むしろグントバハロンは、ルティドロンの防衛を担うことで生計を立てていると言っても差し支えないのかもしれない。二国の需要と供給は、とてもうまい具合にウィンウィンなのだ。  その軍会館へ行けば、きっと熊のような武人は見つかるだろう。軍が引き揚げてしまうまで時間がないかもしれないのですぐにでも行きたかったが、無理をして足の捻挫の治りが遅くなっても生活が困るので、ノエラははやる気持ちを抑えつけた。      ◆◇◆◇◆ 「え、いらっしゃらないんですか」 「うん、悪いねーお嬢さん」  二日後、すっかり痛みも引いたのでノエラは家に祖母を残して一人軍会館に向かった。無骨な男性ばかりの軍会館はなかなかに近付きがたい雰囲気だったが、入り口の守衛と思しき男性に勇気を出して話しかけた。例の熊さん武人の特徴を伝えると、すぐにそれがヴィリアム・マンダールという人物だと思い当たったようで彼の名前を教えてくれたが、残念ながら彼はいま北方の国境付近のパトロールに出ているとのことだった。 「何か伝言があるなら伝えるよ?」 「あ、いえ……先日助けて頂いたお礼なので」  ノエラはバスケットの中に包んできた焼き菓子を見下ろして俯いた。特別美味しくはない普通の焼き菓子だが、これを渡してもう一度直接、感謝を伝えたかった。しかし感謝を伝言するという無礼はできないので、本人がいないのであれば出直すしかない。 「もしかして君、北西の森で歩けなくなってたところをヴィリアムが助けたお嬢さん? ねえ、ヴィリアムが来て逆に怖くなかった? 彼、グントバハロンの女性にもすっげー怖がられるからさ。君みたいに温厚なルティドロンの女性からしたら、それこそ野生の熊と遭遇したのと変わらなかったんじゃない?」  守衛の男性は暇だったのかノエラと雑談をしたいようで、くすくすと笑った。どうやらヴィリアムがノエラを助けたことは、軍内で広まっているようだ。 「いえ……私、あのまま森の中で死ぬんだと思ったので……助けに来ていただいて、本当に本当に嬉しかったです」  確かに、街中であの巨躯がいきなり目の前に現れたら怖がったかもしれない。しかしあの時のノエラは死を目の前にした気持ちで、助かるなどとは微塵も思っていなかった。そこへ助けに来てくれたのだから、ありがたく感謝することはあっても、彼を怖がる理由は何もない。それに、思い返せばあの時彼はとても丁寧に接してくれた。こちらの状況を逐一確認し、寒かろうと気遣って上着を貸してくれて、何をするかもすべて先に言って安心させてくれた。グントバハロンの武人の中でも一、二を争うのではないかと思うほどの大柄な体格だが、あの気遣いを思えば身体が大きいぐらいで怖がることなど何もない。 (それに……)  ノエラは守衛に「また来ます」と告げて軍会館に背を向け、帰路についた。 (すごくいい匂いだったわ)  ヴィリアムが着せてくれた彼の軍服。ずっと森の中にいて冷えきっていたノエラの身体に、それはとても温かかった。彼は「臭かったらすみません」と謝ったが、ノエラの全身を包んだその軍服から香る彼の匂いは、これまで嗅いだことがないほどにノエラを安心させるいい香りだった。ずっと包まれていたい、このぬくもりの中で安らかに眠ってしまいたいと思うほどに。  森の中でしばらくの間一人ぼっちで不安だった反動でそう思っただけかもしれない。それでも、あの時助けてくれたヴィリアムの存在はノエラにとって、とても特別なものになっていた。      ◆◇◆◇◆ 「ヴィリアム、結婚しろ」  数日後、野営をしながら北方方面をパトロールしていた一班がアマツリヤの街に戻ってきて、代わりに今度は二班がパトロールに向かう。一班を率いていたヴィリアムは軍会館の執務室にいたエンドリに、一班の帰還と隊員たちの休息入りを報告した。そしてさあ自分もたった一日だが休息をとるか、と思って執務室を出ようとしたが、そんなヴィリアムの背中にエンドリはニヤついた笑顔で言った。 「このチャンスを逃すな」 「なんですか、藪から棒に」  ヴィリアムはため息をつきながら背後に振り向いた。ソファに腰掛けていたエンドリは優雅に組んだ足を組み替えながら、ヴィリアムに視線を向ける。 「先日お前が助けた娘さんがな、お前に礼を言うために何度かここへ来たそうだ。対応した守衛の話だと、どうもお前を怖がっている様子はないようでな。なかなかタフなグントバハロンの女たちにすら恐れられる熊のようなお前を怖がらない娘など、この先そういるまい。休息日のうちに求婚してこい。さあ行け、熊さん」 「いや、行きませんよ」  ヴィリアムはもう一度、今度は盛大に肩をすくめてため息をついた。  エンドリがヴィリアムに結婚を急かす温度は、ここ一年ほど熱くなる一方だった。エンドリの弟であるハリーン家の次男ランナルが去年、グントバハロン宗家の末姫と結婚したのだが、それを機にエンドリは「やはり男は結婚してなんぼだな、子ができればお家も繁栄してグントバハロンはますます栄える」と熱く語り、ヴィリアムのような適齢期の部下にこれまで以上に結婚をせっつくようになった。なかなか結婚せず独身生活の長かった弟の結婚が、よほど嬉しかったらしい。  しかし、「放っておいてくれ、どうせ俺を怖がらない女性などいないのだから」というのがヴィリアムの本音だ。それに高望みの自覚はあるが、結婚するなら小動物のように愛らしい女性がいい。自分の母親とは真逆の、小柄で愛くるしい――それこそ、ノエラのような女性がいい。  だが、こんな大男が押し掛けて求婚などすれば、間違いなく怖がらせるに違いない。彼女とは彼女を助けたあの日が初対面で、それ以降会っていない。互いのことなどほとんど知らないのだ。諸々のコミュニケーションを吹っ飛ばしていきなり求婚など、できるはずがなかった。 「森の中に一人でいて極限状態だったので、俺のことがよく見えてなかっただけかもしれません。あらためて見ればきっと怖がりますよ、こんな無骨な大男」  ヴィリアムは自嘲した。  見た目だけでたいそう怖がられるので、せめて中身は紳士的に振る舞いたい。常日頃からそう思って注意しているが、それでもやはり武人として日々を過ごしているせいで、気がゆるむと粗野な言動が出てしまう。ノエラを助けた時は紳士的な仮面を最後までかぶっていることができたが、あの時の彼女はきっと、遭難した不安と助からないかもしれないという恐怖心で正常ではなかった。だからヴィリアムのことを怖がらなかっただけだ。平時のいま会えば、首をうんとうしろに傾けて見上げないといけないほど背が高くて巨大な自分を怖がるに違いない。それこそ、熊に出会った小動物が怯えて逃げ出すように。 「いや、大丈夫だ。俺の勘が告げている。これはお前にとって運命の出会いだ。全力でもぎ取ってこい」 「もぎ取るって……そんな、果物じゃないんですから」 「いいからモノにしろ。結婚して、お前によく似た強い子を成せ。そしてその子は武人に育てろ」 「勝手なことを……とにかく休息に入らせていただきますよ。失礼します」  エンドリはやけに興が乗っているが、珍しいことではない。エンドリが放つこの圧に負けたような形で結婚した同僚や後輩が何人かいるが、その多くが概ね良好な家庭を築いている。ということは、エンドリがかけてくるプレッシャーのすべてが間違っているわけではないのだ。  しかし、ヴィリアムには自分が幸せな結婚を――というより普通の女性との付き合いさえも、できる気がしない。それもこれも、この熊のような体格がすべての原因だ。 (武人として食っていくのには有利すぎるくらいだが)  背が高いからこそ、戦場では誰よりも遠くを広く見渡せる。そのおかげで敵の攻撃にいち早く気が付いて避けることも、逆に攻め入ることもできた。頑丈な身体のおかげで、うっかり敵の攻撃を受けてもさほど致命傷にはならず何度も生き延びた。ルティドロンの救援任務だけでなく、自国防衛やほかの同盟国への遠征の際も幾度となく活躍して、二十五歳という若輩ながらに、なかなか多額の稼ぎを得ている。武人として第一陸軍内で高く評価されているのは、何はともあれ両親がくれたこの恵まれた体格ゆえだ。  だが、この体付きゆえにヴィリアムは何度も傷ついてきた。好ましいと思った女性にはことごとく恐れられ、怯えられ、声をかけてすらいないのに暴漢扱いされそうになったこともある。娼婦たちは商売なので金さえ払えば夜を共にしてくれたが、ひとつぐらいあってもいいはずの色仕掛けの営業をされたことはない。つまり、娼婦たちにでさえ好ましく思われたことはないのだ。  女性から距離を置かれる日々が長かったせいか、ヴィリアムの中では理想だけがどんどんふくらみ、もはやその理想と空想上の結婚でもした方がいいのではないかとさえ思う。 (お礼……か)  執務室を出たヴィリアムは廊下を歩き、軍会館の中にある大部屋へ向かった。休息日は基本的に何をするも自由だが、たいていの隊員たちはベッドが所狭しと置かれたこの大部屋でゆったりとくつろいでいる。野営でのパトロール中は睡眠時間も短いので、ここぞとばかりにいびきをかいて寝て過ごす者がほとんどだ。ヴィリアムも例にもれず、空いているベッドにごろりと仰向けになって、束の間の安息を得た。 ――あ、あの、本当にありがとうございました。まさか助けが来るなんて思ってなくて……私、あのままあそこで死んじゃうのかと思ってました。  そのヴィリアムの脳裏には、あの日のノエラが思い起こされる。薄暗い森の中で見た時もたいそう愛らしかったが、室内光の中ではっきりと見えた彼女の姿は、本当にかわいかった。一生懸命にこちらを見上げる、くりんとした大きな目と長いまつげ。暖かさを運んできたかと思ったらすぐに消えてしまう春風のようにはかない、透き通った声。ヴィリアムの大きすぎる軍服にだぼっと包まれていた小柄な身体は、隣に並ぶ老婆とそう変わらないほどに細かった。  ああ、あの小さな身体を、壊さないように懸命に注意を払いながらも強く抱きしめたい。白くてやわらかそうなあの頬をむにっとなでて、ふんわりと笑みを作る唇にキスをしたい。あの声で名前を呼んでほしい。そして自分も、もう一度彼女の名前を呼びたい。 (俺って単純……)  寝返りを打って横向きになる。  ヴィリアムはすっかりノエラに一目惚れをしてしまっていた。エンドリに急かされるまでもなく、できることならノエラを嫁にしたい。日々の鍛錬や長期にわたる遠征から帰ってきた時に、彼女に笑顔で出迎えてもらいたい。大事に大事にしながらも、あの小柄な身体をあますことなく力強く抱いてしまいたい。  だがノエラの立場になって想像することで、ヴィリアムはそんな自分の頭を冷やした。こんな熊のような大男に抱きしめられたら、ノエラの肺が潰れてしまう。本物の小動物など小さすぎて視界に入らずうっかり踏みつぶしてしまいそうな大柄な自分は、ノエラのような可憐な女性には恐怖心を抱かせる存在でしかない。先日彼女を助けた日は、彼女にとって非常事態だった。だから怖がられなかっただけだ。ノエラにしてみれば、ヴィリアムを怖がる以前に森の中で危うく死ぬかもしれないという状況だったのだから。 (でも、お礼を言うために何度も……)  聞き間違いでなければ、どうやら自分が北方方面のパトロールに出ていた間に、ノエラは何度かここへ来たそうだ。そう、何度もだ。感謝の言葉の伝言を頼むだけでもよかっただろうに、ヴィリアムがいないかとおそらく一日一回は来たのだろう。なんて健気なのだろうか。優しくて思いやりがあって礼儀正しいなんて、外見だけでなく内面までパーフェクトだ。もはや反則ではないか。 (あー……モテるだろうなあ、あれは)  ヴィリアムは再び寝返りを打って仰向けになると、両手両足をだらしなく伸ばして大の字になった。  愛くるしい外見に、他人を気遣い、思いやる優しさを持っている。そんな完璧な女性なら、いくらでもモテるに違いない。ということは、自分と違って彼女にふさわしい優男の一人や二人や三人や四人が、いくらでもノエラに好意を寄せていることだろう。ますます自分など退くしかない。とてもではないが、勝負に出る気持ちにすらならなかった。 (でもほんとにかわいかった……すんげぇかわいかった)  数日前、森の中で目が合った時の衝撃が忘れられない。自分の理想が現実になったのかと思ったほどだ。 (信じたことなんてなかったが、これがウォンクゼアーザの祝福なのか?)  この世界を創った神、ウォンクゼアーザ。非常にのんびりとしたその神はめったに人の世界に関わることはないらしいが、純粋で無垢な「白き心」の持ち主に「祝福」を授けることがあるらしい。その「祝福」が具体的にどういうものかはわからないが、もしもその話が本当なら、ヴィリアムはノエラの存在こそ神の祝福に違いないと心の底から思った。それくらい本気でノエラは、ヴィリアムの理想の女性だった。 「あっ、マンダール班長、お休みのところすみません」  その時、気の抜けた顔で寝っ転がっていたヴィリアムにかかる声があった。ヴィリアムは起き上がり、自分に声をかけた軍服姿の若い隊員に視線を向ける。それは第四班の隊員で、今日は有事に備えて待機をしているはずだった。 「マンダール班長にお会いしたいという方が、正面口に来ているそうです」 「俺に?」 「はい。先日助けてもらったとか?」 「っ……!」  ヴィリアムの表情が緊張で一気に強張る。皺になっていた軍服の裾をばしばしとたたいて伸ばし、ヴィリアムは気持ちだけでも身なりを整える。それから走り出しそうになる足をどうにかコントロールして、なるべく落ち着いた足取りで軍会館の正面口に向かった。 「マンダール班長、お疲れ様です。あの、こちらの方が」  ヴィリアムの姿を目にした守衛の男性隊員が、通りの隅に立っていた女性を指し示す。するとその女性はこちらを振り向き、首をうしろに傾けてヴィリアムを見上げた。 「あ、あのっ……すみません、押し掛けるような真似をして……。私、あの、先日マンダールさんに助けていただいた、ノエラ・フリオンです」  ノエラはそう言って少しだけぎこちなく笑った。緊張しているのかだろうか。いや違う。平時に見上げるヴィリアムを恐れているのだろう。しかしノエラは、驚きでろくに返事のできないでいるヴィリアムに、手に持ったバスケットから何かを手渡した。ヴィリアムが無言で受け取ったそれは紙袋で、いい匂いがするのでその場でちらりとのぞき込むと、中に焼き菓子が入っているのが見えた。 「お会いできてよかったです。あの、それ……つまらないものですが、あの時のお礼です。森の中で動けなくなって、私、本当に心細くて……でもマンダールさんが来てくださって……あの、ありがとうございました」 「あー……あっ、いえ。そんなお礼を言われるほどでは」 「いいえ。私、あのままあそこで死んじゃって、おばあちゃんを一人遺しちゃうところでした。そうならなくて本当によかった……マンダールさんのおかげです。あっ、ごめんなさい、お名前は、ほかの武人さんが教えてくださったんです。えっと……そうだ、あの、原住部族のことも、いつもありがとうございます」  ノエラは少しだけ及び腰だったが、懸命にヴィリアムを見上げて何度も感謝の言葉を紡ぐ。そのいじらしさに、ヴィリアムは気の利いた返事のひとつもできない。「この()かわいすぎるすんげぇかわいいもうこのままここで抱きしめてグントバハロンまで持ち帰って結婚して嫁にしたい嫁にしたいかわいすぎるどうしてくれんのこれマジでかわいいんだけどほんとにあーもー原住部族なんていくらでも戦って追い払うから戦闘が終わったあとは君が俺を出迎えてくれないか飛びきりのかわいいその笑顔であーそうなったら幸せ最高ということで汗だくになるほど激しく抱きたいんだけどいいかな」と、思考回路がバグっており、理性を司る頭の中の人たちがその壊れきった言葉と思考の数々をひとつも漏らすまいと、決壊しそうな堤防を懸命に抑えつけていた。 「それと……あの、もしかしたらもうグントバハロンに戻ってしまうかと思って……今日も会えないかと思って、お礼の手紙を書いてきたんです。あの、でも、もう直接お礼が言えましたし、読まなくても大丈夫なので……あのっ」 「いえ、ありがたく読ませていただきます。その手紙も頂いていいですか」  決壊寸前の堤防を背中で支えて踏ん張りながら、ヴィリアムの頭の中の理性さんたちは頑張った。ノエラを助けた時と同じ紳士的な言動で、しかしノエラからもらえるものはしっかりともらおうとする。  ノエラはおずおずとバスケットの中から手紙を取り出すと、それもヴィリアムに手渡した。そして再びヴィリアムを見上げて、肩の力を抜いた。 「本当に、ありがとうございました。どうかお気を付けてお帰りください」  最後まで気遣いを忘れない優しい笑顔と言葉。  軍会館に背を向けて去っていくノエラの背中に、ヴィリアムは止められそうもない情熱のほとばしりを感じた。
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