飛鳥(後)

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飛鳥(後)

 いつの間にか、壁際の棚を殆ど真横から見る位置に移動していた天香は、白衣(びゃくえ)を纏った腕をすっと持ち上げる。人差し指を棚に向けると、酷く強張った顔をして薄く色付けた唇を開いた。 「つい先ほど、そちらの方が後ろ手で中段の抽斗(ひきだし)を僅かに開けて……中に、腕輪のような物を滑り込ませたのを見ました……」  階下へ取次ぎに行かせる前。来訪者が害心を抱いている可能性を伝え、不審な行動が見られたらその場で声を上げ教えて欲しいと依頼していたのが功を奏した。しかし、企みの完遂を阻止した安堵よりも実際に事が起こった衝撃の方が勝り、青藍の胸は破裂しそうな程に鼓動を激しくしていた。 「出し抜けに何を言うの……客人に対して無礼にも程がありますよ」  姦計を見破られた大眉の乳母は、恐ろしい形相になって指摘した天香を見た。王甥が耳障りな高音を繰り返し爪弾き始め、場の緊張が増していく。振り向いたまま固まる青藍の背後で、花鈿(かでん)の乳母が加勢した。 「見習の侍女が王甥の乳母相手に言掛りをつけるだなんて……到底看過する訳にはいきません。この件は上に報告させていただきます」 「言掛りや勘違いではありません。金色の装飾品が隙間から差し入れられたのを、確かにこの目で見たのです」  天香は遣り込められることなく言い放つ。大眉の乳母は押し黙り、視線を床に落とした。その頭は震えているように見えた。  目が据わった青藍は(おもむろ)に腰を上げると、棚を背に濃く長く描かれた眉を吊り上げている乳母の元へつかつかと歩み寄る。小琴の音が止み、王甥の不機嫌な声がした。 「彼女を納得させる為にも、抽斗の中を検めたいのです。棚から離れていただけますか」  真正面に立ち感情を押し殺して言う青藍を、乳母は苦しげな顔をして睨んだ。暫らく対峙した後、痺れを切らした青藍が脇から抽斗へ手を伸ばそうとする。  白い手が抽斗に届く寸前、青藍は力任せに後方へと突き飛ばされた。 「うっ……!」  強かに床へ打ちつけた尻の痛みに、薄らと涙を浮かべて顔を歪める。天香と桂花が本人に代わって悲鳴を上げ、王甥が泣き始めた。  驚きと痛みで尻餅を搗いたまま動けずにいる青藍。歩み寄った乳母は怒気を含んだ目で見下ろし、声高に言い立てる。 「ああ! ああ! 本当に忌々しい!! 子々孫々まで安泰だと思っていたのに、今頃になって現れたお前のお陰でこれまでの奮励が全て水の泡になるかもしれないだなんてっ……! 上等な服を着て女官を侍らすわ生意気に将軍補を警護につけるわ、王太后への挨拶もなしにもう入宮を果たした積もり!? お前たちも、今ここで見聞きした事を外に漏らしたらどうなるか、承知しているでしょうね。王姉殿下からの処罰を恐れるのなら唯沈黙していなさい!」  困惑している女官達へ吐き捨てた大眉の乳母は、王甥を抱えた乳母と目配せを交わすと扉へ向かう素振りを見せた。青藍はその右足に取り(すが)る。 「くそっ! 諦めの悪い……っ!」  乳母は勢い良く足を振り上げ青藍の手を払うと、そのまま顔を足蹴にした。口内が切れたらしく、舌に広がる嫌な味に青藍は顔を顰める。  茜色の裙を翻して扉へ向かうのを見て、青藍はよろけつつ急ぎ立ち上がった。棚の中央に並ぶ抽斗を左右同時に引き出す。左の抽斗の中、天香の言う通り見知らぬ金の腕輪が場違いに輝いていた。  怪我に月事にと思いがけぬ事で楽師への道が断たれ、新たに選んだ側妃という道。それが再び、姑息で稚拙な真似により潰されようとしている現状。青藍の心に激しい怒りが湧いた。  腕輪を鷲掴みにし振り返ると、立ち竦む天香を尻目に扉を開け放った乳母が廊下へ飛び出していくのが見える。泣き喚く王甥を抱えた乳母も続こうとしていた。  ジンジンと痛む尻に構わず駆け出した青藍は、扉を出た先で後続の乳母へと追いつく。腕を引いて足を止めると、怪しげな置き土産を突き付けた。 「どうぞ持ち帰ってください。私には不要の物です」 「離しなさいっ。無礼な、私は天子の乳母よ!」  気色ばむ青藍の手を花鈿の乳母が大きく振り払った時、もう一方の腕に抱かれていた王甥が激しく暴れた。安定を失いふらついた乳母は、堪らず主を床へと降ろす。先に遁走(とんそう)した乳母は長い階段を駆け下りていた。  王甥は再び抱え上げようとする乳母を拒絶し、不明瞭な言葉で喚いている。  遊びを中断された上に、大人達が突如として見苦しく大声を出し狂態を演じ始めたのだから無理もない……紅潮した顔が涙や涎、鼻水で汚れているのを見て、青藍の怒りは急速に冷めていった。腕輪を手に立ち尽くす。 「殿下、帰って美味しいお饅頭を頂きましょう、ね? 今日はいつもより遠くまで御拾いしたから疲れてしまわれたんですね。お饅頭を頂いたら午睡をしましょう」  階下に目をやると、扉前に辿り着いた乳母が退館を止められている。これだけ騒がしくしていれば誰でも不審に思うだろうと、青藍は珍しく冷ややかな目をして見下ろした。目の前では残された乳母が力づくで王甥を抱えようとして、腕を振り回しての抵抗にあっている。  すっかり気勢を()がれた青藍は、加減を知らない小さな手が幾度も空を切るのを幽鬼のように黙視していた。口端から涎混じりの血が垂れて、白く美しい上衣を汚した。  冷静さを欠き目を吊り上げて子供を泣かせて、一体自分は何をしているのだろうと思う。己の判断の為に桂花達が叱責を受けた可能性を思い反省したばかりだというのに、こうも騒いではより多くの人間が迷惑を(こうむ)るのではないか……  王が求めている側妃とは、果たしてこの様な人間であっただろうか…… 「あ」  矢鱈に振り回した小さな手が乳母の顔に当たったのを見て、血に濡れた青藍の口から張りのない声が漏れた。  痛みに(うめ)きながら片目を押さえた乳母が捕獲の手を緩めた隙に、王甥が動く。階段のある方へ目を瞠る速さで駆けていったかと思うと、急に左へ逸れた。  そこにあるのは、大人には十分に墜落防止の機能を果たす手摺(てすり)。その支柱は、王甥ほどの幼子であれば通り抜けられてしまう程の間隔で備え付けられていた。抜けた先は宙である。  王甥が支柱の間に入り込んだ。乳母から隠れている積もりであるらしい。両手で支柱を掴み、こちらを見つめている。咄嗟に駆け出した青藍の目の前で、右足を踏み外した体がぐらつき宙へと傾いた。片目を押さえた花鈿の乳母が、声にならない悲鳴を上げる。  床を蹴って手摺に飛び乗り、墜落していく王甥を追った。意識を失う直前、青藍は梨花の絶叫を聞いた気がした。
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