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邂逅(前)
何処かで名も知らぬ鳥が鳴いた。
日の出前、人目を避けるように乗り込んだ馬車に半日以上揺られ続けている。
貴人の物ではない馬車には座席の設えがない。足を伸ばして座るのが精々といった広さの中で、屋渡りの荷物に囲まれている。肉付きの薄い臀部に車の振動が伝わり快適とは言えなかった。
しかし、国の外れにある生家から王都への長旅に、屋根付きの馬車を用意してもらえるだけで有難い話である。文句を言えば罰が当たってしまうだろう……簾の隙間から覗く山里の風景を眺めながら、燕青藍は思った。
世間知らずな末子のために、家族は馬車とともに信頼できる御者をも用意した。普段は遠方への買付け代行を生業としている男で、都に着いたら仕入れた荷を積んで帰るという。
人気のない場所であれば音を出しても構わないと男が言うので、青藍は持参した小型の琴を手慰みに奏でる。指先は軽やかながら、その表情は暗く沈んでいた。
休憩時に聞いた話では、あと少し行けば一日目の宿に到着するという。起きていると良くないことを考えて気が滅入る。青藍は琴を脇に除けると、仮眠を取ろうと傍の行李に凭れかかった。
幼い頃から一日も休むことなく、青藍は表の喧噪が届かない蔵で琴を弾いてきた。
虚弱ゆえに外出を許されない生活。蔵を改装した私室に籠り、友の一人もおらず、家業を継ぐため年端もいかぬ頃から忙しくしていた兄や歳の近い姉と戯れることも無かった。家族より長い時間を過ごしたのは、都から帰郷して近くに住む、元宮廷楽師の伯老師である。
生来のものか環境に因るものか、老師に師事した青藍は見る見るうちに腕を上げていった。十代を半ば過ぎた頃、その技芸は師の写しのように熟達していた。
十七の冬。正月を間近に控えたある日のこと。師と合奏をしていた青藍の元へ、珍しく日中に兄の燕秀が訪れた。不思議に思い手を止めた青藍に対し、来訪を承知していたらしい老師は待っていたとばかりに頷いて迎える。
「青藍、伯殿から大切な御話がある。良く聞きなさい」
師の隣に腰を下ろした兄が言う。榛色の目が平素より一層真剣で、自然と青藍の背筋が伸びた。
その後、師の口から語られたのは正に寝耳に水の話で、青藍は驚きで開いた口を暫く閉じることが出来なかった。
曰く、基本的な技術は全て教え終えた。幼少の折から培ってきた技巧によって今や何処に出しても恥ずかしくない琴師に成長したが、この先力を伸ばすには多くの楽師と共に過ごし学ぶ必要がある。人の営みや自然の情景、街の喧噪など実際に目で見て肌で感じることもまた必要だ。
「お前もすっかり体が丈夫になったようだし、そろそろ外の世界に出ても良いだろう。せっかくの才をここで埋もれさせておくのは我が載国とっても損失であるし、何よりお前の為にならない」
そこで__
「宮廷にいた頃の知己で、今では雅楽団の楽師長を務めている西敏という者に推挙の文を送ったところ、特別に受け入れてもらえることになった。知っての通り、楽舞司には雅楽と宴楽があるが、お前が入団するのは私と同じ雅楽団だ。現役で活躍する一流の楽師達の妙技に触れ、指導を受けて、より一層力をつけて欲しい」
余りに突然のことで困惑した青藍は、でも……と子供のような声を出した。
「青藍、老い先短いこの身は、今後いつまでもお前と一緒には過ごせない。まだ矍鑠としている内に、孫同然に思っているお前を信頼できる者に託し、安心したいのだよ」
師の言葉に口を噤んだ青藍は、やがて観念した様子で俯いた。そこまで言われては駄々を捏ねることも出来ない。成人が近いというのに家業を手伝わず、自室に籠っていることについては心苦しく思っていた。宮廷楽師など夢のような話である。断れる筈もない。
「発つのはいつ頃になりますか」
「十日後だ」
暫く沈黙していた兄が、眉一つ動かさずに凛とした声で言い放つ。
「えっ」
随分と急な話に青藍は目を白黒させる。此方も先方も色々と都合があるのだと言われ、またも意見を封じられた。
「物品の用意から車や宿の手配まで、出立の準備は全て私の方で済ませておくから、心配せずに残りの時間を考試の準備に使いなさい」
兄が涼しい顔で口にした考試という言葉に、青藍はどきりとする。
「驚いた顔をしたね、青藍。いくら私の頼みとは言え、何の審査も無しに引き受けてくれるということはないよ。耄碌した私が、教え子可愛さに無理な推薦をしている可能性だってあるのだから」
思わず吃驚した青藍であったが、確かにその通りだと冷静になる。しかし、頭で理解しても動悸と脂汗は治まらなかった。
緩やかな時間の唐突な終焉に呆けた弟を残して、燕秀は美しく敏捷な所作で立ち上がる。
「伯殿、私は仕事に戻ります。青藍、詳しいことは夜にでも話そう」
「……さて、では早速、課題曲の稽古に取り掛かろう。お前の実力なら少し浚えば問題はないよ」
出立までの僅かな期間、青藍は朝から晩まで琴の指導を受け、指の形や按音の加減など、宮廷楽師ともなれば見逃さないであろう、ごく些細な癖を徹底的に直された。
夜は一人で机に向かい、試験勉強に勤しむ。都行きの話が出る数日前、たまには……と言いながら久々に譜面の書き起こしをさせられたことを思い出す。あれは考試を見越してのことであったかと思いながら、青藍はひたすら筆を走らせた。
郷里を発ち十三日目の朝、青藍を乗せた馬車は予定通り王都へ到着した。
出立前は不安が募った長旅も、兄と御者がしっかり手筈を整えていた為に、殆ど不自由を覚えることなく済んだ。旅の終わりに名残惜しさを感じる程である。
城の正門近くで馬車を降りた。城下に入る際に通過した門もその大きさに驚いた青藍であったが、あれが赤子用に思える程に巨大で、ふらつく程に顔を上げなければ全容が見えない。
通り抜けが可能な土台部分は恐ろしく正確に積まれた石造りで、それだけで畏怖の念を抱く程の高さがあるというのに、更にその上に三階建ての立派な御殿のようなものが建っている。
端の反り返った豪壮な屋根。まるで自分を威嚇しているように感じて、青藍は足が竦んだ。
深呼吸をして門兵の一人に声を掛ける。事前に話が通っていたらしく、奥に進んで手続きをするように言われた。全体が巨大な為に細く見えた通路は、実際に通過すると馬車が何台も並んで通れるほどの横幅がある。
門兵も受付の係官も、やけに自分を見つめてきた気がして青藍は落ち着かなかった。小首を傾げる者もあったように思う。上背がなく貧弱な体をしているので、子供が迷い込んだと思われたのかもしれない。人の視線に不慣れな上、見知らぬ土地で神経が過敏になっている可能性もある。早く新しい環境に慣れねばと、青藍は気を引き締めた。
受付を終えると門からほど近い場所にある客舎に案内された。荷を下ろした御者と別れ、宛がわれた部屋で横になる。窓から入る日差しが温かい。
本来であれば、遠方からの受験者は各自で確保した宿から通うのが通例であるが、今回は特別に宿泊が許された。条件を満たした地方の官人等が利用する施設だというから、自分のような受験者が宿代わりに利用するなど異例のことだろう……青藍は身に過ぎる待遇に謝意と重圧感を覚える。
師である伯連成について、青藍は現在の好々爺然とした姿しか知らない。幼子でも理解できるよう言葉を選び、時に遊びや雑談を交えて、知識から弾き方、譜の読み書きなど琴に関する全てを授けてくれた恩師。
上手く弾けない時や子供らしく機嫌を損ねた時、窘めることはあっても決して怒ることをせず根気よく付き合った。ご褒美だと言って甘味や水菓子を持参することも珍しくなかった。
長じてから兄に指導料について尋ねると、元宮廷楽師に支払っているとは思えない、殆ど慈善活動のような金額だと言われ、より一層感謝の念を強くしたものである。
宮廷楽師の職を退いて十余年が経つというのに、未だに権威を示す師の功績や人望が如何ほどであったのか、青藍は漸く思い知った。
宿泊予定である三日間、他に利用者がいないので、係の者は常駐せずに通いで食事などを置いていくと案内時に説明を受けた。二階建ての広い宿であるのに、三日間独り占めである。気兼ねなく過ごせるというよりも、王都まで来て一人と言うのはどこか寂しく感じた。
考試の合否に拘わらず、客舎に宿泊出来るのは三日のみとなっている。兄からは万が一不採用となった場合の覚書を渡されていたが、縁起が悪い気がして青藍は目を通していなかった。
旅の疲れから真白な敷布の上で微睡んだ後、青藍は用意された湯で髪や体を清め、手持ち無沙汰で夕食も早くに取った。寝支度も済ませたが、まだ戌の刻になった頃。寝るには早いので、卓子に向かい筆記試験の対策をする。
練習用紙を墨痕で染め尽くした青藍は筆を止め、じりじりと燃える灯りを見つめながら考えを巡らせる。
慣れない旅の道中では考える暇がなかったが、今頃になって都に出た実感が込み上げてきた。十八になるまで暮らした生家を離れたことが、俄かに心細くて堪らなくなる。
物心つく前に母を亡くし、忙しい父には滅多に会えず、母屋に暮らす姉とも交流が無かった。生まれてから殆どを蔵の中で過ごしてきた自分に、一人で一家族分の役割を担ってくれた厳しくも優しい兄。採用が決まれば当分会うことは無いのだと思うと、無性に恋しくなって鼻の奥がツンと痛む。
郷愁に駆られている場合ではないことは青藍も重々承知していた。特別に用意された機会をふいにするなど絶対に許されない。家族を大いに落胆させるであろうし、推薦してくれた恩師の顔に泥を塗ることになる。乳離れの良い機会であるとも思っていた。
しかし、同時に突然の宮廷入りを時期尚早だとも感じていた。八音ある雅楽の中で、琴以外の器楽は実物を見たことも聴いたこともなかった。他人との生活や仕事も経験がない。明日からの考試に無事及第したとして、果たして自分のような者に宮廷楽師が務まるのだろうか……青藍は長嘆した。
そも、無事に及第するかも定かではない。高い技術力と知識が必要とされる為に、受験が可能となる二十歳を迎えて直ちに受験する者は稀で、採用人数が少ないため一度で及第するのは至難の業と聞いた。受験者の多い琴は、その確率が低いとも。それでも師は太鼓判を押したが、本人が述べていた通りに、教え子可愛さに目が曇っている可能性が無きにしも非ずである。果たして大勢の宮廷人を前にして上手く爪弾き、物怖じせずに語ることが出来るのか__
「はぁ……」
再び溜息を吐いた青藍は燭台を手に取ると、鬱々とした気分を解消すべく廊下に出た。寝るにはまだ早い時間であるのに辺りは暗く、しんと静まり返っている。帳場も既に消灯していた。
食堂に用意があると言われた水でも貰おうと、暗い廊下を蠟燭の弱弱しい灯りで照らしながら、戸口とは逆方向に進む。他に宿泊者がいない為、戸口からほど近い便利な部屋を宛がわれている。廊下を挟んで右奥に食堂があると説明を受けていた。どうせ一人であるからと食事は部屋で取ってしまったので、足を運ぶのは初めてである。靴音がいやに響いた。
食堂に入り周囲を照らすと、厨房近くに水甕を見つけた。隣に茶碗の用意があったので有難く拝借する。季節柄、汲んだ水は喉を刺すように冷えていて、体には悪かろうが気分が爽快になって良い。
一息で飲み干した青藍が部屋に戻ろうと茶碗を置いた時__
突如として蝋燭の火が消え、一帯が暗闇に包まれた。初めて訪れた場所で視界を奪われた青藍は、激しく動揺する。部屋には種火があるものの、こうも暗くては戻る前に何処かにぶつかる心配があった。考試前日に転んで手を突きでもしたら事である。青藍はそろそろと窓があった筈の壁際へ移動し、しっかり閉じられた木戸を手探りで開け放つ。
目線の高さにある小窓から冷気と共に月明かりが差し込む。無事に目が利くようになった青藍は、安心するよりも先に格子越しに見える景色に心を奪われていた。廊下を挟んで反対に部屋がある青藍は知り得なかったが、そこには余程の富者でないと持ち得ない程度に立派な庭園が広がっていた。
庭は奥に向かって小高くなっており、丁度盛りの時期であるのか、幾種もの木々が月明かりを受けて咲き競っていた。千紫万紅とはこのことかと青藍は感嘆する。庭の中央には東屋がある。手前に池があり、短い橋が架けられていた。思いがけず出会った美しい景色に、青藍は胸を高鳴らせた。
門内の片隅に位置し、周囲は無人。人々が寝静まっている時間でもない。音を抑えて一、二曲程度なら誰に知られることもなく琴を爪弾けるのではないか。満月の夜、天上や仙界を思わせる美しい庭で琴を弾く機会など、今を逃しては二度と訪れないかもしれない。生家に居た頃と違い、今の自分は己の望むがまま自由に出歩くことが出来るのだ。
窓から差す月明かりを頼りにどうにか部屋へと戻る。灯りを用意し、生家より持参した小さな琴を抱えると、青藍は逸る足で庭園へと向かった。
長椅子が一つあるだけの朱色の東屋は、掃除が行き届いており蜘蛛の巣ひとつない。煌々と輝く月の明かりで、目を凝らさずとも物が見える。青藍は足元へ燭台を置いた。多少見え辛くとも弾奏に支障はない。月明りを頼りに琴を奏でるという、詩の世界のような雰囲気を堪能したかった。
宿を背に花盛りの木々を向いて座る。木々から仄かに漂う甘い香りに青藍は目を細めた。
生家に居たままでは生涯見ることが叶わなかったであろう景色。半ば強制であったとは言え、勇気を振り絞って鄙から出てきた自分に天から贈られた餞だろうか……青藍は一頻り感嘆すると、いそいそと琴の調弦を始めた。
小琴を膝上に置き、指を慣らしながら何を弾こうかと考える。まずは明日披露する課題曲の中から難曲の『天来』を、次は今宵に相応しい『浅春良宵』を弾こうと決めた。
未だ冷え込みの厳しい早春の晩であるのに、青藍の手先は凍えることなく滑らかに動いた。心技冴え渡り、琴師泣かせの天来を会心の出来で弾き切る。師の不在を残念に思う程であった。
二曲を弾き終えた青藍であったが、満たされるどころか貪欲になった。最後にもう一曲弾奏して終いにしようと、再び調弦し始める。
青藍はささやかな独奏会の終わりに、楽師時代の若き師が手遊びに作ったという名もなき曲を選んだ。哀切を帯びた旋律が気に入り、幼い頃から数え切れない程ねだって弾かせた。師への敬愛の念を込め、殊更丁寧に指を運ぶ。
興が乗って二巡目に入った。老師が乗り移ったかのように手指を動かす。標準的な大きさの琴よりもやや高い音が、澄んだ空気に響いた。
無心で奏でる内に、いよいよ三巡目も終わりの時を迎える。曲の最後で優しく宥める様な動きをする左手が好きだった。記憶の中の動きをなぞる。馴染みの曲を生誕の地に連れ帰ることが出来た。青藍は胸に迫るものを感じながら、静かに最後の音を響かせた。
音が止んでも暫く余韻に浸り、青藍は漸く顔を上げた。その目が零れ落ちそうな程に見開かれる。
向かいの柱近く、一人の男が幽鬼にでも出くわしたような顔でこちらを見ていた。
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