182人が本棚に入れています
本棚に追加
邂逅(中)
驚いた拍子に、弦に添えていた手が調子外れの音を鳴らす。
眦の上がった大きな目を丸くしたまま暫し固まっていた青藍であったが、ややあって勢い良く立ち上がると琴を抱えて石畳に膝をつき、深く頭を垂れた。
「もっ、申し訳御座いません」
一人の世界に没入して少しも気配に気付かなかった。怪しい奴だとこのまま何処かへ突き出されるかもしれない……明日の考試が取り止めになる可能性を思い、青藍は全身の血の気が引いていくのを感じた。
息を震わせて地面を見つめる視界の端に、男の足先が映る。青藍はこれ以上ないほど小さくなり、きつく目を瞑った。
「……咎めに来た訳ではない、顔を上げてくれ」
逡巡した青藍が意を決して従うと、凛々しい偉丈夫と目が合った。男は眼光鋭く不審者を観察する。気圧されて再び視線を下げた青藍は、男の足先が左へと向きを変え歩き出すのを見た。このまま通り過ぎる気だろうかと期待半分に思う。
青藍の期待も虚しく、靴音は直ぐに止んだ。男は長椅子に腰を下ろすと、青藍にも座るよう促す。断って逃げ帰る訳にもいかず、青藍は己の軽率な行いを悔いながら、そろそろと尻の端が浮くほど隅に腰を下ろした。
「火が移るぞ」
大きな手を肩に回され、細い体がびくりと跳ねる。軽く抱き寄せられながら下向けば、足元に置いた燭台へ今にも寝巻の裾が触れそうになっていた。青藍は男の座る方へと心持ち尻を動かす。
それにしても……視線を前方の木々に向けたまま、青藍は嗅覚に神経を集中させる。隣人からは、えも言われぬ良い香りがする。生家にいた頃、後学の為にと値の張る香を兄が焚いてくれたことがあった。その時も、この世にはなんと良い香りが在るものかと驚いたが、男はそれ以上の薫香を纏っている。
上品で精悍でどこか甘い、いつまでも側で嗅いでいたくなるような香り……腕の良い調香師によって作られたであろう上等な物を、平素からこうして焚き染めている。宮中でも高位の人物ではないかと青藍は見当をつけた。
「斯様な場所で、何ゆえ一人奏琴を」
耳心地の良い低音が、思いのほか温柔な口調で問うた。恐れから未だに男を見ることが出来ない青藍は、視線を石畳に落とし、おずおずと口を開く。
「……このように美しい庭を見たのは初めてで、浮かれてしまって……月影さやかな庭園で一人琴を奏でたら、詩や画に見る世界のようで素敵だろうと……お恥ずかしい限りで御座います」
口にすると己の行いが実に幼稚なものに思え、青藍は俯いたままで赤面する。実力のある楽師が行えば様になるであろうが、自分のような青二才がしたのでは子供のままごと遊びである。男もさぞかし呆れていることだろうと、青藍は縮こまった。
傍らで、小さく笑った気配がする。
「風流で良い趣味ではないか。確かに花盛りで美しい……梅に山茱萸、白木蓮は早咲きだな」
「あの白い花を咲かせているのが木蓮で、黄色い方が山茱萸ですか……?」
蔵育ちの青藍は殆ど植物を知らない。すらすらと名が出てくるのに感心しながら、思わず会話を繋ぐ。
「ああ、そうだ。楽人であれば『天上暮夜』という曲を聞いたことはないか。元となった詩に白花の木について叙景している一節があったが、あれは白木蓮だと言われているな。作者の故郷が澗国にある白木蓮の名所らしい」
「ああ……! その詩なら存じております。夜の天上の幻想的な風景描写が私好みで……桃林の村も天上界も、俗世と異なる世界って憧れますでしょう。そうですか、これがあの……想像していたものと随分違いました。思ったより大きいし、こんな風に上を向いて咲くのですね。形も面白い」
目を輝かせた青藍は興奮から多弁になった。暫くして正気に戻り、やってしまったと肩を竦める。
「明日には満開になって花容が変わる筈だ……山茱萸は秋に赤い実をつけるが、それが薬になる」
「何に効くのですか……?」
「冷えや不眠、止血……まぁ、そんなところだな」
男は途中ちらりと青藍の顔を見て、効能を列挙するのを止めた。何か難しい病の名が続くのを、知らぬに違いないと略されたのか。青藍は男の顔を見て小首を傾げるが、仕方の無いことと気に留めない。
それにしても博識な男であることだと、青藍は感心しきりであった。天上暮夜など楽人でなければ曲名すら知らぬ者が大半であろうに、元の詩や余話まで知っている。老成した雰囲気だが肉体は若々しい。三十を過ぎた頃かと青藍は当たりをつけた。
齢の割に風格があり、多様な知識を有した高貴で眉目の良い男……もしや、正体は美しい月夜の庭に誘われた神仙なのではないかと、青藍は夢見がちなことを考える。
「ところで、随分と若く見えるが此処へは何用で参ったのだ」
男が興味深げな視線を寄越した。緊張が緩んでいた青藍は、居住まいを正して男へ向き直る。
「申し遅れました。西濱より楽師採用考試を受けに参りました。燕青藍と申します」
頭を下げると、最上級品の絹糸のような黒髪が胸元で揺れた。青藍は息を呑む。
「お見苦しい姿で申し訳ありません、誰とも会うことはないだろうと油断しておりました」
青藍は今になって、己が酷い有様であることを思い出した。寝巻に上衣を羽織っただけの格好。洗髪後、団子にするどころか結ぶこともしていない髪……慌てて男と反対側へ髪を集め、肩の前へ垂らした。夜気に曝された項が冷える。
「俺も似たようなものだろう。夜分に堅苦しい恰好をしている方が妙だ」
恥じ入る青藍に男が笑みを向けた。目の前の偉丈夫が審査員であったら既に及第は望み薄だと内省しつつ、青藍は改めて男の出で立ちを確かめる。隙なく着込んだ黒の長衣に白の外衣をゆったりと羽織っている。衿や帯等を文様入りの中間色で揃えていた。上等な平服といった感があり、確かに職務中の宮廷人が身に着ける衣装には見えない。黒々と美しい長髪は上で纏めずに、青藍より一回り太い首の項辺りで一つに結んでいた。
青藍は男の寛大さに痛み入りつつ、恐る恐るといった調子で口を開く。
最初のコメントを投稿しよう!