邂逅(後)

1/1
167人が本棚に入れています
本棚に追加
/83ページ

邂逅(後)

「あの……こちらの客舎に御用があっていらしたのですか。ここ数日は何方(どなた)もお泊りにならないそうですが……」  広大な城内の片隅にあるこの宿を、用もなく暮夜に訪れるとは考え難い。音量には注意していたつもりであったが、存外遠くまで響いていたのだろうか……柳眉を顰める青藍に、男は全く予想外な返答をした。 「いや。来た時に城門を通ったと思うが、上に楼閣があるだろう。此処からも見える」  男が長い指で示すので、青藍も肩越しに振り返ってその方角を見やる。立派な三階建ての楼閣が、東屋からも良く見えた。各階明かりが灯っていて盛観である。 「その昔、世話になった者が詰めていてな。退役が近いので送別に出向いたのだが、(いとま)を告げる時になって、客舎のある方から琴の音が聞こえると言い始めた。何か物悲しい琴曲が聞こえるだろうと……しかし、俺も側にいた者にもそれらしい音は聞こえない。近いようで距離があるので空耳を疑ったが、老大人は聴き入っている様子だった。如何(どう)にもこの目で真否を確かめずにはいられなくなって、帰りしな覗きに来たという訳だ」  理由を聞いて青藍はひとまず安堵する。老大人にのみ琴の音が届いた不思議はさて置き、男が騒音を咎めに来たのではないと言ったのは本当であったのだ。  しかし、態々(わざわざ)足を運んでみれば自分のような小物が遊んでいたのでは、肩透かしを食らったのではないか……青藍は卑屈なことを考えて苦笑した。 「半信半疑で訪れてみれば、成程確かに琴を爪弾く者が居て驚いた。声を掛けずに去るつもりでいたが……妙なる音色に魅かれ、こうして姿を現してしまった」  青藍は瞠目して男を見た。凛々しい顔に微笑を湛えてこちらを見下ろしている。空世辞を言った風には思えない。我が琴が都の大人(たいじん)の心を捉えたという事実が俄かには信じられず、青藍は暫し言葉を失った。 「私の琴、良かったですか……?」  男が当然の如く首肯するのを見て、青藍の顔に忽ち笑みが広がる。先刻まで幽鬼じみた気配を纏って弾奏していたのが嘘のような、初夏に咲く花を思わせる溌剌とした笑顔であった。 「師と父兄以外の方に琴を聴いていただいたのは初めてで……嬉しい言葉を頂戴して……今、天にも昇る心地がいたします」  長じてからは父はもとより兄に披露することも稀であったので、実質、聴衆は伯老師ただ一人であった。喜びで跳ねたい気分の青藍とは対照的に、男は形の良い眉を僅かに寄せ怪訝な面持ちになる。 「これまで、人前で弾く機会は無かったのか」  男が口にした至極尤もな疑問に、体が弱く自室を出たことが無かったのだと青藍は説明する。男は取り敢えず納得した反応を見せ、今の体調を気遣った。薫香の染みた外衣を貸与しようとするのを青藍は固辞する。 「その琴、この辺りでは見ない大きさだが、他国の物か」  男の視線が青藍の膝上に注がれた。青藍は小さく首を振る。 「いいえ……琴を習い始めた頃に父が与えてくれた物で、幼子の手でも扱いやすいよう特別に小さく作らせたのだそうです。西濱には琴の工房が幾つもありますので……」 「息子思いの父君だな」  感心した口振りの男に静かな笑みを返した青藍は、硨磲(しゃこ)玉のように白い指で琴の縁を撫でた。 「玩具のようですが、これでなかなか良い音が鳴るので気に入っていて……今でも時折こうして爪弾いているのです……見てみますか」  珍品へ関心を寄せている様子の男に、青藍はそっと小琴を差し出す。受け取った男はしげしげと眺め、小さくとも造りは変わらないのだなと感心した風に呟いた。  裏返して『燕青藍』と彫られているのを見つけ、その上で指先を滑らせる。文字を確認しているだけの何気ない行為が、青藍は妙に気恥ずかしかった。  一通り観察し終えると、男は青藍よりずっと広い膝の上に琴を載せ、弦の上に指を置く。  その構えが出鱈目でなく意味のあるものだったので、青藍は密かに吃驚した。刮目する青藍の前で、男は手解きに使われる有名な小曲を器用に奏で始める。師以外の人間が奏でる音を聴くのは初めてであった。手本のように丁寧で正しい音を振動の一つまで聴き逃すまいと、青藍は息を殺して集中する。 「……簡単に弾いていたが、難しいものだな」  弾き終えた男が琴を返しながら言う。青藍は気が昂っていた。無意識のうちに男に近付いている。 「私は慣れていますから。初めて触れて、その大きな手で正確に弾けるなんて素晴らしいです。心得がお有りだったのですね」  男は、四芸の一つとして習ったが、忙しさを言い訳に遠ざかり弾いたのは久々だと言う。その割に、通常の半分に満たない大きさの琴を難なく弾いてみせた。  青藍はすっかり目の前の男に心を掴まれていた。  風に吹かれた木々がサワサワと音を立てる。 「……今宵出会えたのが、貴方様で良かった」  会話の切れ目に、素直な思いが口をついて出た。大袈裟で気味悪く聞こえただろうか……青藍は一抹の不安を覚える。しかし、己の変心の早さに呆れながらも、邂逅したのが他者であったら、ここまで満ち足りた時を過ごすことは無かっただろうと確信していた。 「実は、考試を前に気後れしていて……こんな所で一人遊んでいたのは、気晴らしの為でもありました」  男は黙って聞いている。青藍は中指の先で弦を撫でつつ吐露を続けた。 「いつか琴を生業に出来たらと夢想して生家の片隅で弾いていたのが、与り知らぬところで話が進んでいて……宮廷入りを目指して研鑽を積んできた訳ではないので、覚悟も自信も不足していて……考試に落ちたらどうしよう、突然王都へ来て上手くやっていけるのだろうかと……十八にもなって、情けない限りです……でも、貴方様のお陰で沈んでいた心が上向きました。有難うございます」  人前で、しかも初対面の人間を相手に弱音を吐くなど、如何(いか)にも剛健そうに見えるこの男は一度も経験がないだろうと青藍は思った。簡単にそうする自分を軽蔑するかもしれない……ちらりと顔色を窺う。  青藍の想像に反して、男は渋面を作ってはいなかった。こちらを見下ろすのは穏やかで真摯な瞳である。 「楽師の入団考試は本来なら下限が二十歳であった筈だから、十代の事情のある身で受験するのに不安が多いのは当然だ……ただ、職務柄、雅楽を聴く機会も多いので多少は耳が肥えていると思うが、お前の奏琴は見事だと思った。その玩具のような大きさであの妙妙たる音色を奏でるのだから、正規の琴であれば如何ばかりであろうかとも」  神通力を以て心内を見透かされているのではと思う程、男は的確に青藍が欲する言葉を与えた。重厚で芯のある声が紡ぐ言葉には慥かさが感じられる。青藍は胸を熱くしながら、男の言を噛みしめた。 「万事が上手く運ぶことはない。この先辛い思いも沢山するだろう……しかし周囲は自分が思うよりも此方を見ているから、腐らずに日々努力することだ。この調子で励めば、お前はきっと名のある楽師になる。いつの日か、更なる成長を遂げたお前の弾奏を聴くことが叶えば心嬉しい。活躍を祈っている」  誠実な力付けの言葉が、青藍の心に少しの抵抗もなく染み渡っていく。  潤んだ瞳の青藍がしっかりと頷くのを見て、男は腰に下げている得物の柄に手をやった。先程から時折視界には入っていたが、これまで武具を見たことがない青藍には少々恐ろしく映る。何をするのかと考える暇もなく、男は柄の先に括り付けてあった真朱の組紐を解いた。 「考試に付き添ってやることは出来ないから、代わりにこれを」  青藍は渡された紐をじっと見る。金糸が編み込まれたそれは、両手の上で月光にきらきらと美しかった。男の心遣いに胸がいっぱいになり、青藍は泣き笑いの顔で言う。 「後生大事にいたします。明日は必ず身に着けて臨みますね」 「……さて、長居をしたな。そろそろ戻るとしよう」  男の視線の先を追えば、足元の蝋燭が今にも燃え尽きそうであった。早く部屋に戻らないと、また屋内で難儀するだろう……青藍は俄かに慌て始める。 「今日は本当に有難うございました。お陰様ですっかり心安くなりました……どうぞお気をつけて、お休みなさいませ」  青藍は客舎の戸口で男と別れた。姿が見えなくなるまで見送りたかったが、蝋燭の火が尽きかけているので、そそくさと部屋へ戻る。  寝床へ横になり、目を閉じて先刻の邂逅を反芻した。  男はついに身分を明かすことはなかったが、非番でありながら佩刀しており、上午に見た門兵に負けず劣らずの見事な体躯をしていた。また、宮廷音楽を耳にする機会があるという発言等から、恐らく禁軍の武官、それも王の護衛を務める人物ではないかと青藍は考えていた。  高く通った鼻梁や、美しい歯が覗く形の良い唇を思い出す。何よりも印象的であった、力強く怜悧そうで時に優しい目元……貴人に仕える者は、能力に加え見目の良さも重視されるという。精悍で背筋の伸びた偉丈夫が王の傍に控えている姿を想像すると、とても据わりが良いように青藍は思った。  妄想じみた推考を終えると、青藍は寂しげな溜息を吐く。  本音を言えば、及第の暁に礼を言えるよう名を教えて欲しかった。しかし、幾らでも機会はあったというのに名乗らなかったのは、敢えてのことなのだろうと理解していた。その気のない相手に名を乞う大胆さを、青藍は持ち合わせていない。  まずは無事に及第して、いずれ再会を果たせますように……  この日青藍は、玫瑰(まいかい)に等しい真朱の組紐を握りしめて眠りについた。
/83ページ

最初のコメントを投稿しよう!